第六話:パンと胃袋と悩める乙女の救世主(その14)
ある日の日曜日。
すったもんだの紆余曲折の行ったり来たりの七転八倒の末、三尾漱吾 (31)は、どうにかこうにか、彼と彼の相棒であるところの彼の胃袋とともに、彼らのとっておきであるところの、彼らの大好物であるところの、小さなパン屋へとたどり着いていた。
『なんでこんなにかかったんだ?』
と相棒が訊き、
『さあ、ボーッとしてたからよく分からねえな』
と三尾漱吾は応えたが、なぜ自分が“ボーッとしてた”かについては、なんとなくではあるが、さすがの彼にも心当たりがあった。
『由梨佳さん、キレイになってたな』
とふたたび相棒が訊き、
『あの人は昔っからキレイさ』
と漱吾は応えた。――キレイじゃない女のひとなんかいないさ。
『チーズトーストだっけ?』
と、彼からのこの質問に、今度は相棒のほうがボーッとしていたのだが、そんな相棒もフッと気を取り戻すと、
『そう。ちょっと焦げた部分のあるヤツな』
と、彼に向かって応えた。
『それとあったかいカフェオレ』
そう漱吾は続け、
『この暑いのに?』
と相棒が訊き返し、
『まだ朝だしな――』
と、パン屋から出て来る女の子を見るともなしに漱吾は眺めていたのだが――突然、
「八千代ちゃん?!」
と、相棒も驚くような声で言った。
と言うのも、彼が見るともなしに眺めていた少女が、いつもの喫茶店のいつもの赤毛のウェイトレスであることに不意に気付いたからである。
「ああ、漱吾さん」
そう少女は言うと、
まったくの自然体で――いつもと変わらぬ自然体で、
彼のほうに歩み寄ろうとしたのだが、
フッ。となにかを想い出したのだろうか、
フツ。と、その足を止めると、
フッ。と半歩ほど後ずさってから、
「――どうも、おはようございます」
と言う軽い会釈とともに――言ってみれば少々慇懃な態度とともに、彼にあいさつした。
そんな彼女の態度に三尾漱吾 (31)は、
こちらもこちらで半歩ほど後ずさり掛けたのだが、
そこはそれ、相棒であるところの胃袋に踏み止まるよう指示されると――踏み止まり笑顔を見せるよう指示されると、
「一瞬、誰だか分からなかったよ」
と、いつもの“あの顔”になりながら言った。――なにも胃袋はそこまで求めてはいなかったのにね。
しかし、なるほど、確かに。
今日の彼女はいつものウェイトレス姿でもなければ、時折り見せる高校の制服姿でもない。
トレードマークである見事な赤毛は男物のキャップで隠されていたし、上着はキャップと同じグレーのロングパーカー、さらにズボンはデニムのショートパンツ…………と、その背の高さともあいまって少女と言うよりは少年――それも少年マンガに出て来る主人公の少年のように見える。
「すみませんね、こんな男の子みたいなカッコで――」
と、自分でも自覚しているのだろうか彼女は、そう言うとキャップを取ってみせながら、
「背が高いといろいろ大変なんですよ」
と、続けた。
「私だってもうちょっと――皆さんみたいにキレイなカッコしてみたいですよ」
もちろん。
この“皆さん”のところで彼女の脳裏をよぎったのは、いつかのインタビューでこの無思慮無分別な作者が見せた三尾漱吾の歴代彼女の画像だったワケであるが――、
*
いいかい?八千代くん。
男がみんな、そんな女性の上っ面だけ見ていると想ったら大間違いだよ?
*
「なに言ってんの?ぜんぜんカワイイよ」
と、例の“あの顔”になりながら漱吾が言って、
『おいおい、旦那』
と、そんな彼を相棒がたしなめようとした。
『子ども相手に誤解招くような言い方するなよ――アンタの悪いクセだぜ?』
がしかし、そこはそれ、結局は彼女も女性――相当に頑固で強い女性である。
「あー、もー、それですよ?」
と、彼と彼の胃袋をたしなめ諭すような口調で彼女は、彼らに忠告を与える。
「その顔、そんな簡単にやるもんじゃありませんよ?」
「顔?」――なんか昨夜も似たようなこと言われたな?
「漱吾さんのことだから無自覚なんでしょうけど、あんま良いクセじゃないですよ?」
「ごめん。俺……いまどんな顔してた?」
「“どんな”って……」――なんて言えば良いのかしら?
*
「確かに。“「愛」とは“美しいもの”に対する愛”で間違いないでしょうね」
「ならやっぱり。「愛そのもの」は、“美しさ”を持っておらず、それが自分には“足りない”と想っている。――如何かしら?」
*
「あー、もー、いいです!私、頭わるいからよく分りません!!」
「ちょっと、八千代ちゃん?」
「とにかく!そーゆー顔は、もっと大事なひとのために取っておいてあげて下さい!だれかれ構わずしていいもんじゃありません!!」
「だから、どーゆー顔のこと言ってるのか分かんないんだよ!」
「あー、もー、メンドクサイ人ですねーー。だったらいいですよ、どうせ私や森永さんたちには効かないんですから」
「――はあ?」
「いいからいいから、パン買いに来たんでしょ?じゃあ、さっさと入って、お店のひとに不審がられる前に――」
「ちょ、ちょっと八千代ちゃん?!」
カラカラン。
と、そうしてパン屋のカウベルが鳴り、三尾漱吾とその相棒は店内に取り残されることになった。
『――フラれたのか?』
と胃袋が訊き、
『そもそも口説いてすらいないよ』
と、三尾漱吾 (31)は返した。
もちろん。
漱吾の言うとおり、彼に彼女を口説くつもりはなかったし、彼女も彼に口説かれたつもりはなかった。
それにそもそも。
彼も彼女も、互いにそんな間柄になることなんかはまったくもって望んでいないし、逆にそんな間柄になることは出来ることなら避けたい……と云うのが本当のところであっただろう。――世の中には、そんなことより大切な間柄というものが山ほどあるのだから。
*
そう。
だからね、漱吾くん。
由梨佳さんも八千代くんも、そのことを君に伝えたかったんだよ。
*
(続く?)
……、
…………、
………………、
……………………あ、やべ、忘れてた。
「ただしまだ1ラビスの酒を飲めるわけを聞いておりません。――忘れず、続きをお話いただきますよう」
「もちろんでございます。――では、まずはひと口頂きまして……」
「――いかがですかな?」
「なるほど、さすがに佳い酒ですな。これほどの白酒は私も初めて――」
「さあさあ、それでは早く続きを」
「あ、これは失礼。――では。
さて例えば、地元の村や里で寄り合いがあったと致しましょう。
そこには若い男女が――若くなくてもよろしいですが――男女隔てなく座をまじえ、酒杯をまわし、言葉を交わし、遊戯を行ない、肩と肩がふれあい、手をにぎり合うものもあれば、秋波を送り合うものもあったとしましょう。
右のおんなの髪はほつれ、左のおんなの上衣は椅子にかけられております。
そのような場であれば――たとえ相手がいなくとも――その雰囲気だけで私はこころ楽しくなり、8ドゥオンほど飲んだところで……そうですな、三分の一ほど酔えることでしょう」
「うん。――なかなか興味深いうたげだ」
「そこでさらに日は暮れ、酒宴もたけなわ。
酒は一ヵ所に集められ、皆ひざ突合わせ、
男女の席は同じく、はき物は入りみだれ、
さけの杯はあちら、さかなの皿はこちら、
床の間の灯は消え、うす絹の肌着は解け、
仄かな酒気香気が、私を襲ったとします。
そこでついに私は、1ラビスの酒を飲み干すことになります。
――よろしいですかな?王よ?」
「…………う……む?」
「そのため東亜の古諺にこうあるのです。
“さけ極まれば、かならず乱れ、
慰め極まれば、かならず悲し”
――どうか、ご自愛いただきますよう」
「わかった。……こころに止めておこう」
「はい。――さすがは王さま」
(続く?)
……、
…………、
………………、
……………………にゃん?
「ああ、もしもし?ジョゼフ?
ええ、そう。まだ日本。――旦那さまは?
あら?今日はまた早く寝たのね?――こっちは朝の7時半よ。
え?いや、じゃあちょっと伝言お願い出来る?――大丈夫。私なら元気だから。
えーっとね。――“野暮用が出来たので、パリに帰るのが少し遅れる。”
いいかしら?――いや、弟は想った以上に元気そうだったわ。お友だちも出来たみたいだし。
そうね……2週間ぐらいかしら?相手次第の部分もあるけど。――え?いや、なかなか興味深い方を見付けてね。
うん。そう。じゃあお願い。――ええ、あの人には“愛してる。”とも伝えておいて。
はい。じゃあ、よろしく。――さて」
「にゃん? (訳:やは肌の あつき血潮に 触れも見で さびしからずや 道を説く君)」
「あら?おはよう。――ご主人さまならまだ寝てるわよ?」
「にゃおうん? (訳:忍ぶれど 色に出にけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで)」
「どしたの?お腹すいたの?――困ったわね。“お兄さん”はまだまだ寝てるだろうし」
「にゃあ (訳:思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを)」
「疲れてるのよ、そっとしておいてあげて。――昨夜は頑張らせちゃったし」
「にゃーん? (訳:春風の 花を散らすと 見る夢は 覚めても胸の さわぐなりけり)」
「はいはい。じゃあ“お姉さん”が何か作ってあげるわ。――台所行こ」
「ふにゃおん (訳:八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を)」
「そうそう。いい子ね。――じゃ、ちょっと台所借りますね――樫山先生」
――チュッ。
(続く)




