第六話:パンと胃袋と悩める乙女の救世主(その13)
「――私は“お姉さん”の意見に同意します」
そう樫山泰仁 (31)が言い、鷹子・カスティリオーヌ (38)は、すこしだけ満足そうなほほ笑みを漏らした。
それから彼女は、彼の手を取ろうと、その白く細き腕を泰仁のほうへと伸ばそうとしたのだが、丁度その時、
ピロン。
と、そんな彼女をたしなめるかのようにテーブルのうえのスマートフォンが鳴った。
と同時に。
彼らのいる個室の外から、
「すみませんね。もうすぐオーダーストップの時間ですね」
と言うこの店の女主人の声も聞こえて来た。
そうして鷹子は、泰仁のほうへと向け掛けていた白く細き腕をもとの位置へと戻すと、
先ずは、テーブルのうえのスマートフォンを確認し、
次に、今夜の出席者が全員――特に三尾漱吾 (31)が確実に――室内にいることを確認してから、
「それではみなさん!」
と、“白き腕の女神”と見紛うばかり――聴き紛うばかりの音声で、皆に注意を促がした。
「たいへん遅くなりましたが、本日のスペシャルゲストをお呼び致しましょう。――ごめん真琴、扉を開けて“彼女”を入れてあげてくれる?」
「“彼女”?」
と、突然の使命を受けた弟・山岸真琴 (28)は訊き返したのだが、
「いいから早く――」
と、突然の使命を与えた姉・鷹子はそんな質問は意に介さないとばかりに逆に弟を急き立てると、
真琴の横に座る三尾漱吾に嬉しそうなほほ笑みを向けてから、
「特に漱吾くんは覚悟してよ」
と、付け加えた。
そうして――
カチャリ。
と、中国四川料理店『西天取経』1階個室の扉は開かれ、
そこにはひとりの――キヅタとスミレ模様のサマードレスを着た豊かな黒髪の――ひとりの女性が、突然開かれた扉におどろいた様子で立っていた。
が、おどろいたのは彼女だけではない。
と言うのも、この酒宴の出席者のほとんどが――漱吾と鷹子のふたりを除いたそのほとんどが――このうつくしき女性のことをまったくもって知らなかったからである。
「――鷹子?」
と女性が、戸口に立ったままの格好で――いまだためらいを隠せぬ格好で訊いた。
「はいっていいのかしら?――それとも、よくないのかしら?」
するともちろん鷹子は、
「もちろん良いわよ、入ってらっしゃい」
と、その白く細き腕を目一杯にひろげながらこたえ、
その旧友のほうへと歩みを進めると、
彼女を抱き締め、
それから未だ呆然としたままの一同を振り返りつつ、
「それではみんなに紹介するわね」
と続けた。
「私の旧い友人で、とってもキレイでカワイイひと。――“如月由梨佳”よ」
*
「ちょっと“お兄さん”、詢子ちゃんのほうに詰めてくれます?」
そう由梨佳を片手に抱き締めたままの格好で鷹子は言うと、
「それから真琴は漱吾くんと席を変わって」
と、流れるような口調で続けた。
すると、この鷹子の言葉を――と言うか一人の男の名を聞きとがめた如月友梨佳は、その豊かな黒髪を両手でかき上げながら彼女に訊き返した。
「“漱吾くん”?」
何故ならこの時まで彼女は――その黒髪が右目の前に垂れ下がっていたために――その男の存在に気付けていなかったからである。
が、その問いと同時に彼女は、開けた視界の片すみに問題の男を見付け、まるで飛び上がり叫ぶが如くに、
「漱吾くん?!」
と、彼の名を繰り返すことになった。
「なんでこんなところにいるの?」
*
〔証言その6:如月由梨佳 (38)〕
「じゃあ鷹子の弟さんの先輩が漱吾くんの友だちだったってことね?」
「そう。まさに“イッツ・ア・スモールワールド”――あのアトラクションに感謝しなくちゃね。おかげで真琴もここにいるわけだし」
「――は?」
「あ、いやなんでもない。――ちょっとした下ネタ、身内ネタよ」
「って言うか、だったらひと言メールにそう書いてよ。――あたしこんな普段着で来ちゃったじゃない」
「いいのいいの、それで十分にキレイだから」
「あんたはバッチリメイクしといてなに言ってんのよ?――って言うか、そこの瓶のワイン残ってる?もらっても良い?」
「どうぞどうぞ。――ほら、漱吾くん。由梨佳にお酌してあげて」
「ちょっと鷹――あ、ごめん。漱吾くん。うん。ありが……ああ、半分ぐらいで良いわよ。――うん。ありがと」
「さあ、由梨佳も漱吾くんに注いであげ――」
「ちょ――ちがうちがうちがう。鷹子、あんたなに考えてんのよ?」
「うん?別になんにも考えてないわよ?――ちょうどひとり分の席が空いたし、由梨佳の顔も見たくなったし」
「もう。またそんな適当なこと――あ、ごめん。漱吾くん。同じワインで良い?……と言うか、君も鷹子と一緒で年取らないわね?」
「漱吾くんっていまいくつ?」
「あ、いまは31です」
「そっか。――なんだ、あたし達って7つしか違わなかったのね」
「いくつの時付き合ってたの?」
「あ、僕が21の時で――」
「ってことは私が27~28の頃ね」
「あー、その頃の7才差は大きいわよね。――特に女の子は」
「まあ、僕的には、そう言うのも別れた原因のひとつなのかなと――」
「ちょっと!それだけじゃないでしょ?――色んな子にちょっかい出してたくせに」
「そうなの?」
「いいえ、鷹子さん。ちょっかいだなんて、由梨佳さんとお付き合いしてたときは――由梨佳さんだけでしたよ」
「うそばっかり。色んな人に“あの顔”振りまいてたじゃない?」
「――“あの顔”?」
「――なんですか?“あの顔”って」
「なによ、とぼけちゃって。あたしを――だけじゃなくて、女の子を見るときは必ずしてたじゃない。あの顔よ」
「ごめん、漱吾くん。その顔、いまやってもらえる?」
「すみません。ほんと、どの顔のことを言ってるのか分からなくて――」
「とにかく!あの顔をされると…………いや、ちがうのよ。それ自体はうれしいのよ。――すっごくうれしかったのよ。
でも……なんて言うの?……例えば…………君といっしょの時は良いのよ?
でも、朝起きて、別れて、仕事に行って……仕事も頑張るじゃない?
すると、他のいろんな人たちからの尊敬とか羨望とかを集めたくなったりする自分もいるワケじゃない?
そうすると、なんて言うか…………君と会って、“あの目”で見詰められて、それで満足しそうになる自分が、こう……ダメなんじゃないかな?って想えて……。
でも、だからって君が他のひとに“あの目”を向けているかって想うと――それはそれで悔しい気持ちにもなるのよ。
で、それで、そんな気分が続くと、『あのバカとはもう会わないようにしよう』みたいなことも考えちゃうんだけどさ……、でも、また会うとやっぱり満足しそうになる自分がいて……、
で、そうすると、こう、『この男さえいなくなれば!』みたいな風に感じちゃうこともしばしばあってね――」
「――なんかちょっと不穏ね」
「――そんな風に想われてたんですか?」
「あ、いや、もちろん『殺したい!』って想ったことは……まあ一度や二度じゃないけど――って、まあそれは冗談として。
それでもまあ、もし万が一そんなことが現実になったとしてさ――あたしはきっとさらにいっそう悲しい気分になるんだろうなってことも分っててさ……。
で、まあ結局。早い話が、あたしには君をどう扱えばいいかが、全く分からなかったってことよ。――だから、別れることにしたの」
*
さて。
それからまたしばらくして、今度は向学館編集者の坪井東子 (30)が『西天取経』の扉を開いた。
この日の彼女は、問題の某非政府系環境保護団体東京事務所での一件があったためだろうか、それとも何がしかの時空間の歪みが千駄ヶ谷周辺を取り囲んでいたためかは分らないが、何度も通い慣れ親しんでいたはずの表通りや裏通りをあっちへ行ったりこっちへ来たりし――玄奘禅師一行が如き左顧右眄・三界流転の後、どうにかこうにかこの中国四川料理店にまでたどり着いたのであった。
が、しかし、そもそもの出足の遅れと右に書いたような暗中模索があったため、彼女がそこにたどり着いたころには、件の“饗宴”は終了し、若干名居残っていた者たちも既に立ち去ったあとだったと言う。
「たくさん食べて飲んでくれたからよかったですけどね――」
そう本日の売り上げを数え上げながら料理店の女主人は言った。
「あの大喰らいのイケメンと下戸の先生、それにやたらオッパイの大きな女のひと――アナタも大きいけどそれよりもっと大きかったね、ワタシ目が点になったネ。
あと、その女の人の友だち?の美人さんの四人はこっちが掃除始めてもまあだ飲んでたね。――もちろん下戸の先生除いてだけど。
よくお酒も飲まずにあんな酔っ払いたちの相手出来るな?ってワタシ感心したけど――ま、下戸の先生は下戸の先生でお話盛り上がってたね。
え?どんな話してたかまでは分からないよ。こちとらシゴトしてるんだからね。舐めちゃいけないよ?
ああ、でも『覇王別姫』って言葉は聞こえて来たね――アレ、日本でも有名ね。
あとは『夏の夜の夢』がどーとかこーとか言ってたけど、要は悲劇も喜劇も書けないといけないみたいなことを――特にあのオッパイのひとに――伝えたかったみたいね。
で、そうこうしてたらあの大喰らいともうひとりの美人さんがアクビ始めたんで、こっちもチャンスとばかりにそろそろ帰るように言ったね。
そしたら例のオッパイが「そうよ、“お兄さん”もう行きましょう」って言ってやっと帰ってくれたね。
ほんと、今夜は大変な夜だっ……は!やったね!!今日の売り上げ、今年に入っての最高額ね!オッパイさま様ね!!」
そう言うと主人は立ち上がり、厨房で後片付けをしている料理人たちに、彼女たちの国の言葉でなにがしかを伝えた。
すると厨房の料理人たちも――その言葉に応える形で、なにがしか喜びの言葉を叫んでいたのだが結局、そんな彼らの喜びも言葉の通じぬ坪井にはよく分からないらしかった。
なので彼女はしかたなく、
「あの、では、私も失礼します」
と小さく言って、その店を去ることにした。
酒気と香気のほどよく混じりあった甘い香りが、彼女の鼻をかすめた。――ちょっとだけ、不安な気持ちになった。
(続く)




