第六話:パンと胃袋と悩める乙女の救世主(その5)
『東京の夏は、ベンガヴァル・ウルの何倍も暑い。』
――と、その日はいったカレー店の店主は言った。
そんな彼の言葉に山岸真琴 (28)は、
『“ベンガヴァル・ウル”ってどこだっけ?』
と想ったのだが、直後――
「“茹でた豆”の何倍も何十倍も暑い。“インド人もビックリ”ね」
と店主が言って来たので、
『ああ、きっとインドのどこかにそんな街があるんだな』
と、彼はただただ納得することにした。
いつもの彼ならもう少し深く考えてみたり手元のスマホでググったりしてみるところなのだが、その日の彼は少々浮かれ気味で、そんな“茹でた豆”に少ない脳のリソースを割くほどの余裕は持ち合わせていなかった。
それというのも、その日の夕方、彼の元恋人の現恋人――というかもう“奥さん”って呼んだほうが良いのかな?それとも女性の結婚相手の女性のことを“奥さん”とか“お嫁さん”とか言うのもジェンダー的には問題になったりするのだろうか?
でもそれを言い出したら“妻”って漢字だってたくさんの簪で飾られた花嫁さんのことを示しているのだから豪華な結婚式をあげていないひとのことを“妻”っていうのもなんだかおかしなお話で……って、ああもうメンドクサイ!
ってことで、仕切り直し。
えーっと。
だからつまり――、
その日の夕方、真琴の元恋人で絶賛妊娠14週目の中谷あきら (25)の現恋人である佐々木百合子 (27)はどうしても外せない用が出来たとかで、あきらの妊婦検診に同席出来なくなってしまっていたのであった。
なので、そのため、この前日、
「だからマコトくん、あきらと一緒に行ってあげてくれない?」
と、彼女にしては珍しいトーンで電話越しの百合子は言った。
もちろんこの申し出に対して真琴は――そのうれしい気持ちを悟られないよう十二分に注意しながら――ふたつ返事でオッケーした。
するともちろん百合子は百合子で、感謝の意を表した直後に、
「でもだからってあきらにちょっかい出したらだめよ」
と、いつものトーンに戻りながら真琴に釘を刺した。
「分かってますよ」
と、百合子に恐縮して見せながら真琴は言い、
「あきらも大事な体ですからね」
と、自分に言い訳をしつつ答えた。
「“ちょっかい”なんかけっして出しませんよ」
*
と、まあそんなことがあったりなんかしたもんで、その日の彼は、少々浮かれ気味で、“茹でた豆”に少ない脳のリソースを割くほどの余裕は持ち合わせていなかったわけである。
――分かってくれたかな?
と、言うことで。
その日の午後、“ベンガヴァル・ウル”出身の店主が営むカレー店を出た山岸真琴 (28)は、
雲の上を歩くようにあたりをぶらつき、
店という店をのぞいてまわり、
女性もののブランドショップを冷やかしてみたり、
古いオフィス家具と古美術品を一緒に扱っているような店の店主から“破天楠”と呼ばれる茶器の故事来歴をうかがってみたり、
買いもしないロボット掃除機の機能・能力・メリデメ・コスパなんてものを家電売り場の妙齢の女性店員から懇切丁寧に教えてもらったりなんかしていた。
*
「こちらのタイプも面白いんですよ」と、女性店員は言った。「さきほどのものより二回りほど大きなブラシと1.5倍ほどの高さの吸引力でお部屋の隅々までキレイにしてくれるんです」
「なるほど。確かに大きなブラシですね」と、いかにも興味があるといった口ぶりで真琴。
すると、そんな彼の口ぶりに触発されたのか店員も、
「それにもちろん、それだけではないんです!」と、なにやらうれしそうな声になって続けた。
「いいですか?見ていて下さいよ?」
彼女はそう言うと、ロボットのスイッチを入れて動かしてみせた。
「――どうですか?」
うん。確かに。
スイッチを入れられたそのロボット掃除機は、ロボット掃除機用に区切られた1.5mほどの正方形の中をロボット掃除機的な動きで行ったり来たりしている。――しているのだが、だからと言って真琴には店員の質問の意味がよく分からなかった。
なので彼は、
「“どう?”って?」
と、少々こまった声で彼女に訊き返した。
すると店員はニッコリ笑うと、
「まるで雲の上をすべっているようでしょう?」
と、応えた。
「ああ、なるほど」
「でしょう?」
「いまのぼくと一緒ですね」
*
ということで。
その日の午後の山岸真琴 (28)は結構浮かれて舞い上がっていて、ふわふわっとした足どりのままふわふわっと歩きつづけるうちに、気がついたら美山円花 (不老不死!不死身!!)が営む助産院『みやま助産院』の扉の前までたどり着いていた。
*
「どしたの?なにかいいことでもあった?」
6時少し過ぎ、診察室から出て来た中谷あきら (25)が彼に訊いた。
「なんだかにやついてない?」
妊娠14週目に入った彼女のおなかは少しふっくらとし始めていて胸のサイズアップもそろそろ落ち着き始めているのだろうか、なんとなくではあるが、妊婦らしい体型になって来ているんだろうな――と、そんなことを真琴は想った。
「つわりもずいぶん収まったのよ」
と彼女は言い、彼の横にすわった。
「上がってた基礎体温も下がって来たしね。下着選びには苦労したけど、これから食欲も回復するだろうって円花先生が――」
ただの偶然なのかも知れないが、この日この時間の待合室には真琴とあきらのふたりしかおらず、扇風機の風と古ぼけたラジオ放送以外に彼と彼女を邪魔するものはいないようであった。
美山先生は――例によってパートの佐山さんが息子さんの急な発熱で帰ってしまったので――検診費用の計算でまだまだこちらに来る様子はない。
多分、なんの事情も知らない第三者がいまここに座るふたりを見たとしたら、普通の、どこにでもいる、仲の良い、言ってみれば幸福そうな、夫婦かカップルだと想ったことだろう。
「それでもう少ししたら運動を始めたほうが良いって言われたんだけど、それが“1日2時間は歩かなきゃダメだよ”っていうのよ?信じられる?2時間なんて妊娠する前でも――」
と、ここであきらは言葉を切ると、ふたたび真琴の顔を見詰め、
「ほんと、なにかいいことでもあったの?」
と、改めて訊いた。
「にやにやしちゃって」
そんなあきらの言葉に、真琴はすこし驚いてみせると――自分でも気付かぬうちに驚いてみせると、
「そうかな?」
と、両方の手で頬のあたりを押さえながら言った。
「そんなににやついてる?」
「うん。にやついてる」
「そんなつもりはないんだけど――百合子さんがいないからかな?」
「あ、またそういうこと言って。ユリが聞いたら怒るわよ?」
「いい加減、怒られ慣れたよ」
「でも回数は減ったでしょ?」
「そうかな?」
「そうよ。なんだかんだでマコトのこと信用してくれてるんだから」
「百合子さんが?」
「検診には付いて来てくれてるし、出産関係の本も熱心に読んでるって聞いたし。
でなきゃ、あのユリが私と男のひとを二人っきりにするわけないじゃない」
そう言うとあきらは、改めて真琴のほうへと向きなおり、キュッと彼の手を握った。
「ほんと、私もユリも、マコトには感謝してるんだからね」
そのつなげられた手から、記憶よりすこし高めの、しかし間違いなくかつて愛したひとの体温を感じた山岸真琴は、その体温をなつかしく想ってしまった自分にためらいを感じながらも、先ずはひと言、
「百合子さんのためじゃないよ」
と、言った。
すると、この言葉を受けた中谷あきらは、先ほどのおどけた口調に必死で戻ろうとしつつ、
「またそんなこと言っ――」
と、そう言いかけたのだが、この言葉を真琴は、つながれた手を強く握り返すことで止めようとして――、事実、あきらはしゃべるのを止めてしまった。
そうしておいてから彼は、
「やっぱり、ぼくは、いまでも――」
と、言いかけたのだが――、
それはさておき困ったことに。
その時、待合室の古ぼけたラジオからよーく見知った――と言うか聴き知った――その声を聞いただけで背筋に冷たい氷の塊を何百個も入れられた気分にさせられてしまうような声が、彼の耳に飛び込んで来たのである。
*
『はい!ということで!!
AKBC文化部所属・園乃彩がお送りしております『夕方ノアの運ぶ船』。
本日の!スペシャル!!ゲストは!!!
な、なんと!私の最も敬愛する人物のひとり!!
愛のカリスマ!美の女神!!悩める乙女の救世主!!!
そうです!この方!!
新著『恋人に愛される50の方法』を上梓されたばかりの!!
“ファルコ・V・オルドイーニ”改め“フフォン・ラ・カスティリオーヌ”先生でーーす!!!
皆さん!!拍手ーーーーー!!!』
『ハーイ!皆さんおひさしぶり!!マコトー聞こえてるーーーーーー?』
――あー、こういうことですか。
(続く)




