第五話:ネコとクジラとユリノキ台のひょこひょこおじさん(その14)
午後7時43分。
スマートフォンの着信音が鳴った。
ひとりきりになったソファでうとうとし掛けていた日向康花 (29)は、すっかり暗くなったリビングに灯りをともそうと、ソファのどこかにあるはずの蛍光灯のリモコンを探したが、結局見付からなかった。
そこで彼女は、これまでどおり、いろいろなことをあきらめると、カーペットのうえに置きっぱなしにしておいたスマートフォンを手に取り、相手を確認し、ほんの一瞬だけ息が詰まりそうになりはしたものの、そのまま、ソファに寝転んだすがたのまま、その通話ボタンを押した。
「もしもし?……そうね、いまどこ?
うん?……ううん、友だちなら帰ったわよ。
あ、たださ、ちょっと……いいや、飲み過ぎたとかじゃないんだけどさ……和康がちょっと具合わるいんだ。
え?……いや、熱があって、さっきもおかゆさん残しちゃってさ。
うん。だから、あんたはそっちのお友だちに送ってもらうかなんかして――、
え?そんなの知らないわよ。…………だったら歩いて帰って来てよ。和康ひとりにしておくわけにもいかないでしょ?
ふん……ああ、それかいっそのことご自慢のチームで走って来ればいいんじゃない?いい年こいた男連中が日がな一日野球やってお酒飲んでさ…………それはあんたも一緒でしょ?」
そう言って康花は電話を切ると、スマートフォンのあるほうの手を高く振り上げたのだが、その拍子に、先ほどは見付からなかったはずの蛍光灯のリモコンが、彼女のお尻に当たっていることに気付き、その振り上げた手をゆっくりと下ろすことにした。
コップに残っていたウイスキーをひと息に飲み干した。
*
午後7時57分。
最後のポテトチップスもなくなった。
言われるがままに取った仮眠のせいだろうか、森永久美子 (24)はソファの上にうつ伏せになってはいたものの、その身体の疲労に反し、目と頭はしっかりと、いやになるほど目覚めていた。
彼女の視線のさきには、料理の失敗をくつがえそうとして更なる失敗を繰り返したためなかば放心状態で天井を見つめている樫山詢子 (27)がいる。
台所のほうからはこげ臭い――だけではない種々雑多な失敗の香りが漂って来ていたのだが、それでもなお、彼女らふたりのお腹は空腹を感じているようである。
「ちいさい頃ってさ」と、天井に向けた視線を動かしもせず詢子が言った。「――って、起きてる?」
「起きてますよ」と、こちらはこちらで目を開けもせずにグリコ。「――お腹が空いて眠れそうにもありません」
「ちいさい頃ってさ」と、グリコの言葉を無視したままに詢子は続ける。「大人になればさ、普通に大人になれるって想ってたじゃん?」
「ことばの使い方おかしいですけど、言いたいことは分かります」
「朝は普通に起きてさ、仕事も家事も普通にこなしてさ、料理も、なんかこう、普通にこなせるみたいな?」
「ボキャブラリーの貧困さが先輩らしいですけどまあ、言いたいことは分かります」
「……出来ないもんだね」
「先輩は無茶振りが多いんですよ、自分への」
「そうかなあ?」
「お兄さんとか、あれぐらいが良いんじゃないですか?」
「あー、なんかこう、淡々、淡々、淡々としてるもんね……遺伝子の違いかなあ?」
「なりたいかって言われれば微妙ですけどね」
「あんな淡々としてんのに、いろんな事に巻き込まれるしね」
「というか、そろそろ出前取るか買い出しに戻るか決めません?」
「あー、どうしよっかなあ?」
*
午後8時11分。
台所にホットケーキのいい匂いがした。
その時、樫山泰仁 (31)と三尾漱吾 (31)の対局も大詰めに入っていたところだったのだが、ピーッという炊飯器の音にふたり同時に手を止めると、先ずは樫山が、
「あれは食べるなよ」と、漱吾に釘を刺した。「僕の三日分の朝食だ」――7一金。
すると漱吾は、
「食べやしないよ」と、腹の具合をたしかめながら答えた。「でも味見ぐらいはいいだろ?」――6三歩打。
「ダメだ。食費取るぞ?」――8一金。
「ケチ臭いなあ、大作家先生が」――6二歩成。
「大作家じゃないし、収入はお前のほうが多いはずだ」――3三金。
「そうなのか?」――6三角打。
「多分な」――3二玉。
「ネコのメシ代でも削れば?」――5二と。
「それは出来ない」――7一金。
「女にはとことん弱いな、お前は」――4二と。
「……なんだそりゃ?」――同玉。
「あのネコも女の子だろ?」――4五桂。
「ああ、そういう意味か。僕はてっきり……そう言えばフェンチャーチは?」6二金。
「さあな……ほら、これで詰みだ」――3三桂成。
*
午後8時21分。
公園の裏の道で小さな鈴の音がした。
ちょうどそのとき佐倉伊純 (29)は、詢子からの不在着信に折り返しのメールを打つべきかどうか悩んでいるところだったのだが、その鈴の音にうしろを振り向くと、一匹の白ネコがこちらを向いてあくびをしているのが目に入って来た。
「あれ?」と伊純はつぶやくと、「あんた、お兄さんとこのネコちゃんじゃない?」と彼女に訊いた。
するとその白ネコ・フェンチャーチ (メス、1才7ヶ月)は、開けていた口をゆっくり閉じると、
「にゃごん? (訳:絶望の淵にある淑女に助けを求められたのなら、紳士たるもの危険を顧みるべきではないだろう?)」
と、まるでワトソン先生に向かって問い掛けるような口調で訊いて来た。
が、もちろん伊純にネコ語は分からないので続けて彼女は、
「やっぱそうよね?」と、そう言いながらネコのほうへと近付いて行った。「その鈴とペンダント、フェンちゃんじゃん」
「にゃあーあん (訳:我々全員が自分の不幸を持ち寄り並べ、それを平等に分け合おうとしたのなら、ほとんどの人は現在の自分の不幸の方がいいと言って逃げていくであろう)」
と、喉元をこちょこちょされながら、気持ちよさそうにフェンチャーチ。
「でもなんでアンタこんなとこにいるの?お兄さんのお家から出ちゃダメじゃない」
「にゃあー (訳:賢い者は橋を架け、愚かなる者は壁を造る)」
「どうしよっかなあ?あたしも家に帰るか詢子のとこに行くかで悩んでたのよね」
「にゃふん (訳:あなたのためなら七色の橋をつくり、河をわたりましょう)」
「あ、じゃあちょっと待ってね」伊純はそう続けると、しまい掛けていたスマートフォンを改めて取り出し、「取り敢えず、お兄さんに電話してみるわ」と、言った。
「にゃーん (訳:はげしい雨が降ったとしても、私はあなたのそばにいます)」
*
午後8時29分。
康花は和康の部屋に入り小さなライトをつけると、そのまましばらく黙って立っていた。
ベッドからは和康の小さな左足がはみ出しているのが見えている。――今夜の彼も、小さなベッドの右半分を空けたまま眠っているようである。
この事実に気付いた彼の母親は、それでも無言のまま彼の体を揺すると、ベッドで眠る彼女の息子を起こそうとした。
それから和康は、ふっと目を開き彼女のほうを見たのだが、すぐにその目を細くしかめながら、
「お母さん?」と言った。「どしたの?」
「あんた、なんでベッドを半分空けて寝てるのよ?」
「……なんで?」
「さっきあんた、『“マーリン”は死んじゃった』って言ってたでしょ?」
「……そうだよ?」
「だったらなんで、そんな端っこで寝る必要があるのよ?」
「だって……」
「だってなによ?お母さん、ほんとにもう、ほんとにもうこういうの、もう、ほんとうに――」
「だって、“マーリン”が戻って来たとき、ベッドが空いてないとかわいそうだもん」
*
ブー、ブー、ブー、ブー、
ブー、ブー、ブー、ブー、
ブー、ブー、ブー、ブー、ブー、カチャ。
「あ、もしもし?お兄さんですか?私です、佐倉伊純で……って、なんでお兄さんの携帯にあんたが出んのよ?お兄さんは?
お腹こわしてトイレ?……タイタニックってなに?…………クジラ?漱吾あんたほんと何の話してんの?
え?あー、じゃあいいけどさ、そしたらお兄さんに伝言を……ってちょっと、トイレ中のひとに電話って――あ、どうもすみません。伊純ですー。
あ、え、あ、はい。すみません、漱吾のやつが――、
あ、で、えーっと、実はいまそちらのフェンちゃんが私のところに…………あ、やっぱり?
えーっと、それで……いまは詢子のマンションの近くの公園の……ああ、はい。そこです、そこです。
あー、そうですねー、そうしていただけるとー、はい。
じゃあ私もフェンちゃん連れて詢子のところに行きますんで、そこで合流――と。
ええ、はい。じゃあ後ほど――え?漱吾が?……さあ?…………あー、じゃあ一応代わってもらえますか?」
そう言って伊純は、足もとにすり寄って来るフェンチャーチを抱え上げると公園の柵を越え、いちばん手近のベンチへ腰を下ろした。
「はいはい。あのね漱吾、ふつうお手洗い中のひとに電話なんてまわさな…………“大丈夫か?”ってなにがよ?
え?バカねー、電波か何かの問題じゃない?この伊純さんがさー…………あんた、ほんとバカなんじゃない?」
*
「にゃあん (訳:あなたのそばにいます。だってあなたも私のそばにいてくれたのですから)」
*
「なんで分かんのよ?…………そうよ、康花と一緒だったのよ、そりゃ、瑛さんと令さんの話も出るわよ。
でもさ、でも、もう8年だよ?大丈夫だって想うじゃない。
康花は子どももいるしさ、旦那さんだっているしさ……それなのにさ、あの……あいつさあ……」
それから彼女は、数分だろうか数時間だろうか数秒だろうか、ほんの少しの間、海の中を往く二頭のクジラだかイルカだかのことを想い出すと、
「もう8年だよ?」
と、繰り返した。
「あんたもさ、あの日のことおぼえてるだろ?
あたしと康花のふたりでさ、あのふたりに会いに行くんだってさ、バスの切符も買ってさ、目一杯おめかししてさ……してたじゃない?
そしたらさ、それ見たあんたがさ“馬子にも衣裳だな”って笑ってくれたじゃない?」
フェンチャーチの手が伊純の足にやさしく触れた。
「あたしも康花もさ、ほんとにさ、いい子だったんだよ?」
訴えるように彼女は続けた。
「あたし達さ、ほんとにさ、ほんとに、かわいくてさ、いい子たちだったんだよ?」
(続く?)
……、
…………、
………………、
……………………キューイ。
「せんせ、せんせ……ほら、起きて……起きって…………おい!こら!樫山!起きろ!」
「……なんですか、もうちょっと寝かせてくださいよ」
「なあに言うてんねや、“大将”もう往ってまうで、いつまで寝てるつもりや」
「え?!ウソ?!」
「ウソやあらへん。お天道さんもとっくに高うなっとるやろ?ほんと、こっちが何度も何度も起こしたったのにヘラヘラヘラヘラ寝くさりやがって、どーせあの巨乳のお姉ちゃんの夢でも見とったんやろ?このドスケベエロメガネ」
「……見てませんよ?」
「あーもう、隠さんでもエエって、こちとら誰がどんな夢見とるかまで分かるんやし」
「……それはさすがにウソ?ですよね?」
「信じるか信じんかは先生次第やけどさあ、取り敢えず“大将”に挨拶のひとつでもしといでえな、マジで“今生の別れ”ってヤツになるんやから」
「……通じますかね?」
「通じるも通じんもあっちの方が知性は上や、シンシに話たったらきっと分かってくれるわ」
「じゃあ、ちょっと行って来ますよ」
「はいはい。ようけ話して来なさい」
*
「やあ、おつかれ」
「あ、おつかれさんです」
「連れの先生、やっと起きたみたいだね?」
「あ、もう、そうなんですよ。ほんと、毎度毎度クライマックスを見逃すひとでして」
「ま、疲れてもいたんだろう」
「昨夜も超新星爆発を見逃しましたしね」
「……なんだって?」
「あー、いや、こっちの話です」
「……昨夜と言えばさ」
「はい?」
「あんた昨夜、ワシが“なんでこんなところに?”って訊いたら、なんか言いにくそうにしてたよな?――ありゃいったいなんだったんだい?」
「あー、やっぱ分かりました?」
「嫁さん含めて、女にはさんざん苦労させられて来たからね」
「多分……あー、やめときましょ、やっぱり」
「なんだい、もったいぶって」
「失礼に聞こえるかも知れませんし」
「かまわんよ、逆に気になる」
「じゃあ……多分、こう言おうとしてたんですよ」
「うん?」
「“ここに来たのは、あなたもクジラも、そろそろ消えてしまう種族なんだからだと想います”」
(続く?)
……カチカチャカチャカチャ、
…………ムシャムシャムシャムシャ、
………………ゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴク、
……………………プッハー。
「ごめん伊純、これもお代わり」
「ちょっと詢子、もっとゆっくり食べなさいよ」
「すみません伊純さん。私にもお代わりお願いします」
「だからグリコも、ちゃんと噛まないと太るわよ?」
「それがもう、お腹が空いて空いて」
「やっぱ持つべきものは料理上手の友人よね」
「あんた達が下手過ぎんのよ――あ、お兄さん?」
「うん?」
「フェンちゃん用にサラダも作ったんですけど、あげてもいいですか?」
「あー、中身は?」
「マッシュしたジャガイモと湯引きしたササミです」
「あ、なら大丈夫、よろこぶよ。――よかったなフェンチャーチ」
「にゃーーん。 (訳:ひとは時を止めようと様々なことを試みるが、それはどだい無理な話なのである)」
「はい。じゃあどうぞ。――今日は真琴くんいないんですか?」
「山岸ならアキラさんの検診に付き合うとかで帰ったよ」
「そうですか……あまっちゃうかなあ?――お兄さん食べられないんですよね?」
「ごめん。やっぱお腹の調子がさ――あ、でも、あまったら持って帰るよ?」
「了解です。――そしたらあとは、あのまっ黒になったムサカもどきを復活…………ねえ、ここにあったグラタン皿知らない?」
「……これのことか?」
「ちょっと漱吾、それ焦げてたでしょ?――中は生っぽいし」
「あー、まー、ちょっとな」
「ちょっとって――お腹こわすわよ?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫?」
「俺の胃袋はそう簡単に壊れやしないよ」
(続く)




