第一話:BL作家と六月の花嫁(その6)
さて。
それから一時間ほどが経って、一行は千駄ヶ谷のせまい路地を南へと歩いていた。
漱吾・伊純両名の晴れ男・晴れ女ぶりもあってか先ほどまでの土砂降りもいまでは霧雨程度にまで落ち着いているが、――樫山がいなければきっと快晴であったであろう。
「なんであんたも来るのよ?」と伊純が訊き、
「友だちの後輩が困ってるんだぜ?」と漱吾は答えた。「いっしょにいて話を聞いてやるのが友情ってもんだろ?」
*
が、もちろん、皆さまお気付きのとおり、漱吾のこの言葉は多分にウソである。
もし彼のこの言葉が真実本当であるのならば、問題の“友だちの後輩”がどんな容姿 (例えば“妖怪田ブス子さん”とか)であったとしても彼はこの行軍に参加するだろうが、少なくとも過去十年ほどの彼の行動を想い返すに、彼を動かすには相応の容姿を持った“友だちの後輩”か、美味しいお酒か食べものが必要なようだからである。
*
「そうだよね?真琴ちゃん」
と、問題の“後輩”の方をふり返りながら漱吾は言った。
が、困ったことに、そんな彼の顔はいつの間にかイケメンモードへと変わっている。
すると、そんな彼をたしなめるように樫山が、「漱吾!」と、ちょっと強い口調で言った。
「今日はその顔はおさえておいてくれ」
「なんでだよ?」と、漱吾。「出ちまうもんはしかたねえだろ?」
「それでもだよ」山岸はさておき、詢子には毒だ。「傷心の人間がふたりもいるんだぞ?」
*
「……それで、撮影が休憩に入ったんでスマホを見たらアキラからのメールが入ってて、」
と、ココアの入ったおおぶりのカップで手を温めながら山岸真琴の説明は続いていた。
ここは、時間と場所を少しさかのぼった件の喫茶店『シグナレス』のソファの上である。
「“他に好きなひとが出来ました。もう一緒にはいられません”って…………それから電話をしてもメールをしてもぜんぜん応答がなくて、で、気が付いたら現場を飛び出していて――」
と、ここで真琴はココアをひと口すすると、
「荻窪に戻ろうと駅まで行ったときに、自分の部屋の様子を想い出したら…………アキラとの想い出がたくさん詰まった部屋の様子を想い出したら…………とてもじゃないけど戻れない気持ちになっちゃって――」
と、言ってふたたび口をつぐんだ。
すると、そんな真琴の様子を見た樫山は、そのふるえる肩にそっと手を置こうとしたのだが、それを見とがめた伊純が手にしたデザートスプーンでこちらの手をペシペシッと叩いて来たので結局、その手が真琴の肩に乗ることはなかった。――自覚症状のないまま誰にでもやさしくするのがお兄さんの悪いくせなのよね。
「それで――」
と、そんなふたりのやり取りにはまったく気付かないままに真琴。
「駅の前で固まっちゃって、そしたら自分がこんな“逃げ出した花嫁”みたいな格好だってことを想い出して…………で、急に頭のなかが熱くなって来て、…………で、そしたら急に、千駄ヶ谷にあった先輩のお家のことを想い出して――」
『うん?』
と、ここで樫山&山岸以外の一同はちょっとした疑問・引っかかりを感じたのだが、そんな一同の疑問・引っかかりは無視したままで真琴は、樫山のほうに向きなおると、
「ほんと今日は、家にも荻窪にも戻れる気がしないんです」
と言った。
「よかったら、先輩のお家に泊めていただけませんか?」
*
「あ、」
と、青信号が点滅するのを見つめながら、佐倉伊純は言った。
「着替えがないとマズいわよね」
それから彼女は、後ろを振り返ると、ちょうど“うしろの正面”に立っていた山岸のほっそりスラッとしたモデル体型に軽い嫉妬をおぼえてから、そのななめ後ろにチョコンと立つ詢子のモサッとした格好に強い安堵と共感と憐れみを感じつつ、
「真琴さんサイズは?」
と訊いた。
*
「ダメダメダメダメダメダメダメ!!」
と、伊純&詢子の樫山&山岸を止める声が店内に響きわたる。
ふたたびここは、時間と空間を行ったり来たりした、一時間ほどまえの喫茶店『シグナレス』のソファの上である。
「“ああ、それはぜんぜん構わないけど”じゃありませんよ!お兄さん!」
と、伊純。
周囲の視線が気になったのだろうか彼女は、“お兄さん”の辺りで声のトーンが下げると、
「お兄さんの家、いまはひとりなんでしょ?」
と言って続けた。
「まあ、ネコはいるけど」
「ネコを数のうちに入れないとすると、ひとりでしょ?マズイじゃないですか?」
「いや、でも、大学の同期や部活の連中はいまでもよく泊まりに来るし、山岸だけダメってワケには――」
と、真琴のほうをチラッと見つつ樫山。
「それとこれとは!」
と、今度は詢子が叫ぶ。
こちらも想いもかけず出た大声に自分でも驚いたのだろう、途中でトーンを下げると、
「それとこれとは話が違うでしょ?」
と言って続けた。
すると、このふたりの必死の意見に樫山と真琴はほんの少しのあいだ目を合わせていたのだが、互いが互いに同時に首を傾けると、
「別にそれは――」と、先ずは樫山が言い、
「ほかの方の場合と違いはないと想うんですけど――」と、真琴が続けて言った。
この『なにがそんなに問題なんですか?』といったふたりの態度に詢子も伊純も一瞬思考がフリーズしていたのだが、そんなふたりに成り代わってなぜか漱吾が、
「いや、やっぱりそれはマズいぜ、樫山」
と、言った。
「マズい?」
「確かに。いま真琴ちゃんは深く傷付いてる。で、そんな時には気心の知れた誰かに話を聞いてもらいたいって気持ちになっちゃうってことは、俺にもよく分かる」
あ、ちなみに。
この漱吾という男は、女性をフッたことも女性からフラれたこともすぐに忘れるなかなかのクソ野……剛の者ですので、“俺にもよく分かる”などのセリフはまったくの口から出まかせだということは、みなさま十分ご承知置きください。
「でもそんな時に、お前みたいな、誰にでもついつい優しく接しちゃうような、そんな男に話をするってのは、俺はなにか違うと想うんだよな」
*
『ああ……』
と、漱吾の真意はさておき、“ついつい優しく……”という樫山評に海よりも深く納得しながら伊純と詢子は想った。
『漱吾もなかなかキチンと人を見てるわね』
*
「じゃあどうしろって言うんだよ?」と、樫山。「山岸は今日、行くところがないんだぜ?」
「そこでだよ」と、左手で北を差しながら漱吾。「お前の家はあっちだ」
「うん?」と、出された左手の指す先を追いかけながら樫山。「……まあ、そうだな」
「歩くと大体……10~15分てとこか?」
「まあ……それぐらいかな?」
「で、」と、今度は右手で東を指しながら漱吾。「俺のマンションなら、こっちに歩いてたったの5分だ」
*
『ああ……』
と、漱吾の真意に気付きつつ詢子と伊純は想った。
『やっぱりコイツはコイツだった』
*
「じゃあ、私と漱吾で真琴さんの寝間着と着替え買って来るからさ――」
と、ふたたび青になった横断歩道を渡りながら伊純が言った。
「さきに三人でマンションに行ってて」
「え?なんで俺が?」と、漱吾。
「うるさいわね、そもそもアンタは付いて来てること自体オカシイんだから、荷物持ちぐらいしなさいよ」
「だったら樫山は?」
「家主、お客さん、家主の兄でお客さんの先輩で唯一の知人――」
と、右手の人差し指で詢子と真琴、それに樫山を順々に指しつつ伊純。
「それぐらい分かりなさいよ」
*
「なんだかすみません」
と、伊純と漱吾のうしろ姿を見送りながら真琴が言い、
「いえ、別に構わないんですよ」
と、詢子は答えた。
「うちも丁度、急に部屋が広くなって寂しくしてたところですから」
すると、そんな風に距離を取って話すふたりを見ながら樫山は、『詢子の家に行くほうが問題があると想うんだけどなあ……』と、ひとり考えていた。
(続く)