第五話:ネコとクジラとユリノキ台のひょこひょこおじさん(その11)
「じゃあ、その時のクジラか?」
そう訊きながら三尾漱吾 (31)は鍋に火を入れた。鍋の中には適当に切ったジャガイモとニンジンが入っている。
「いや、その時のクジラは海に帰したから、これはまた別のクジラ」
そう言うと樫山泰仁 (31)はカツオ節と昆布を入れたティーバッグを漱吾に渡した。
「ふーん。じゃあそっちの“大将”は喰われずに済んだワケだ」
「僕らにはね――あ、冬瓜もそろそろ切っといて、適当でいいから」
「あいよ――“僕らには”?」
「だいぶ弱ってたしさ、潮には乗せられたけど、長くはもたないだろうって」
「皮、これぐらい剥いとけばいいか?」
「うん?あーいや、もうちょっと厚めでもいいかな?――で、多分、しばらくしたら他の魚とかエビとかに食べられるだろうってさ」
「それも妙子さんが?」
「うん。――あ、ちょっとどいて、タマネギ入れる」
「はいはい」
「“大将がそう言ってる”って言ってたけどね――“それでも感謝してる”ってさ」
「“感謝”?」
「“やっぱ陸よりは海で死にたかったらしいよ”ってさ――」
「ふーん。やっぱ変わったひとだな」
「うん。――こう、おとぎ話に出て来そうなひとだった」
*
「そこでさ、リョウちゃんがさ、私のおでこに手を当ててくれたんだ」
そう言いながら日向康花 (29)は、その時の彼の手の形を想い出しながら、その右手を自分のひたいへと当てた。
「そしたら私、スーッと熱が下がった感じになっちゃってさ――いや、ほんとに熱が下がったんだと想うんだけどさ、そのまま、こう、あったかい?やわらかい?そんな……こう、本物?の眠りに落ちたんだ――分かる?私の言いたいこと」
するとここで佐倉伊純 (29)は、彼女の質問には答えず、
「旦那さんには話したの?――リョウちゃんのこと?」
と、ある種唐突に訊いた。
「……うん?」と、眠りから覚めかけた子どものように康花は応える。「言いかけたことならね、一度ね」
「キチンとは言ってないの?」
この言葉に康花は伊純のほうを向こうとしたが、しかしそれでも、その目をふたたび閉じて、
「あのね、お姫さま」
と、なかばからかい口調で言った。
「もしもアンタが結婚ってやつをまだあきらめていないんだったら、ぜったいにそんなことしちゃダメよ?分かる?」
「なんでよ?」
「付き合い始めとかならまだしも――やつら理解あるふりをしてくれるからね。
でもね、それでも、男って生き物は、ほかの男と比べられることを、その男に比べて自分が下だって想わされることを、バカみたいに嫌うのよ。
あいつらよりハンサムな子と付き合ってたんなら“でも女の子みたいな顔でちょっと苦手だった”とか、旦那より上の学校に行ってたんなら“専門バカで常識はなかったよ”とか、すぐに落としてやんないと、途端に不機嫌になるんだから」
ここで康花は言葉を切って、グラスのなかの水をひと口すすると、つむっていた目をさらに強くつむり、
「それが」
と言ったのだが、その声の強さに自分でも驚いたのだろう、その薄い下唇をうえの前歯で軽く噛んでから、
「それが――」
と、小さく続けた。
「それが、私が本気で好きになったひとの話なんかしてみなよ――」
伊純は――先ほどのからかい口調に少しばかり怒りを覚えてはいたものの――それでも体を起こし、康花のほうへ近付こうとしたのだが、ここで、
ピンポーン。
と、玄関チャイムの鳴る音がし、彼女たちの会話は途切れることになった。
「ごめん」少しの間を置いて康花が言った。「――多分、和康だ」
「うん」と、こちらも少しの間を置いて伊純は応えた。「――想ったより早いんだね」
「ごめん」と康花はふたたび伊純に謝ると、「――代わりに出てくれない?」と言った。「私いまは、あの子の顔見れるような感じじゃない」
*
「それで?どんな感じなんですか?」
そう訊きながら佐々木百合子 (27)は山岸真琴 (28)が座ろうとしていたイスを足でズズッと後ろにずらした。彼が彼女の妻である中谷あきら (25)の真横に座ろうとしていたからである。
「あ?いや、お腹の子は順調だよ。順調そのもの」
そんな彼女の質問に、この助産院の院長兼唯一の助産師である美山円花 (多分、不死身)はそう言って答えると、真琴の顔を一瞥してから、
「そっちのお父さん?のおかげでもあるんだ、もうちょっといっしょに座りな」
と、百合子に釘を刺した。
「世の中にはさ、はなから順調にいかない子もたくさんいるんだ。順調に行ってるからってそれを当たり前だって想っちゃダメ」
こう言われた百合子は、少しは反省の念をもよおしたのだろうか、
「――分かりました」
と応えると、真琴のほうを向き、
「イジワルして悪かったよ」
と言った。
「マコトくんも、もうちょっとこっち来て良いよ――あきらも良い?」
そんな彼女の――妻の問い掛けにあきらも真琴のほうを向くと、
「もちろんよ」と続けた。「マコトも、もうちょっとこっちおいで」
そう言われて当の真琴は改めて自分が男であることを想い知らされたのだが、それでもあきらの、やさしそうな笑顔にほだされると、
軽くうなずき、
イスを持って立ち上がり、
彼女の近くに改めてすわり、
その横顔になつかしいものを感じつつ、
その記憶のままに、
彼女の手を握ろうとして――、
パシン。
と、百合子にその手をはたかれた。
「そこまでは許してない」
(続く)




