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第五話:ネコとクジラとユリノキ台のひょこひょこおじさん(その9)

「でさ、それからまたバスに乗って東京にもどって来たんだけどさ」


 そう佐倉伊純 (29)は言った。


 時刻は午後4時43分。


 日向康花 (29)にふたたびソファを占領された彼女は、カーペットのうえに仰向けになって、水と氷のはいったグラスを胸の上に乗せている。


「途中、高速に入るまえのバス停でさ、変なかっこうした女のひとが乗って来てさ」


 それから彼女は、グラスの水をひと口飲もうと体を起こしかけたのだが、そこに康花が、


「変なってどんな格好?」


 と、ソファのうえから彼女の頭をなでながら訊いた。


「変なのは変なのよ」と、伊純は返すと、そこで水を飲んでから、「――あんた覚えてないかなあ?」と、康花に訊き返した。「物理の野毛先生」


「物理の?って、ゲゲゲの野毛先生?」


「そうそう。あのおじいちゃん」


「おぼえてるわよ、教えてもらったことは全部わすれちゃったけど」


「あのゲゲゲがさ、いっつも着てたジャケットあったじゃない?あの古めかしい感じの」


「あの茶色の?」


「そうそう。あのツイードの、ひじのところにツギなんか当てちゃってる」


「いかにも“物理”って感じの?」


「そうそう。あれにそっくりのジャケット着てたんだ」


「その女のひとが?」


「そう。まだ若い――たぶん20代前半とかだと想うけどさ、水色のワイシャツにさ、そのツイードはおって、サスペンダーなんかも着いてて――」


「コナンくんみたいな感じ?」


「あれよりおじいちゃんぽかったかな?さすがに下は長ズボンだったし――クツはコンバースだったけど」


「うーん?でもいなくはないんじゃない?」


「でも全体の雰囲気もなんか変でさ、それこそ“いままさにタイムスリップして来ました”みたいな?」


「なによそれ?」


「わっかんないけど、その時の私はそう想ったし、瑛さんも同じように感じたんだって」


「ふーん。まあいいけどさ、で?その女のひとがどうしたって?」


「で……、そうそう。で、そのひとが真っ赤な蝶ネクタイしてたのよ、おっきいの」


「いよいよコナンくんじゃん」


「いやいやアレより……うーん?まあそれでいっか」


 ここでふたたび伊純は、グラスの水をひと口ふくむと、


「そしたらこう、瑛さんがさ、私の袖を引っ張ってさ――」


 と続けた。


     *


「イーちゃん、伏せて」


「なになに?」


「いいから、隠れて」


「どうしたのよ?いきなり」


「あの女のひと」


「女のひと?」


「きっと彼女はスパイだ」


「スパイ?」


「そう。CIAとかKGBとか」


「なんでそう想うのよ?」


「あの人のネクタイ」


「ネクタイ?」


「アレにはきっと、カメラが仕込まれている」


     *


 伊純はクスクスと笑い、頭のうえに置かれた康花の手を握った。


「いまの言い方じゃ分かんないかも知んないけどさ、そこで私たちさ、バスのなかでバカみたいに笑ったんだ――それこそ、その女スパイがびっくりするぐらいの大声でさ」


 この時、きっと気のせいなのだろうが、彼女たち二人には、この“バカみたいに笑った”の部分で、一瞬だけ、時間が止まったように感じられた。


「分かるよ」


 と、ふたたび動き出した歯車のなかで康花は言った。


「リョウちゃんもそんな感じだったもん。

 どんな時でもさ、直接じゃなくてもさ、電話とかさ、メールとかでもさ、特別なにがおかしいってワケでもなかったんだけどさ」


 それから彼女は、伊純の左腕の付け根部分におでこを押し当てると、


「分かるだろ?」と言った。「ただただ、一緒にいるだけでおかしかったんだよ」


「分かるよ」と、伊純は返し、


「な、やっぱもうちょっと飲もうか?」と、康花は言った。


「ダメよ、私もそろそろ帰らなくちゃ」


「いいじゃん、飲もうよ」


「だめ、千駄ヶ谷は遠いのよ?」


「いじわる」


 そう言って康花はふたたびソファへと寝転んだ。


 天井に小さな染みが出来ているのが見えた。


「ある時さ」と康花は言った。


「日比谷公園の噴水のところでさ、春だったんだけどさ、私つまずいて転んじゃってさ、リョウちゃんが噴水のところでさ、本読みながら待っててさ、私そこに駆け寄ろうとしてさ、それで転んじゃってさ、そしたらリョウちゃんがさ、「“かわいそうなひょこひょこおじさん”だね」って言ったの――」


     *


「“ひょこひょこおじさん”?」


「“かわいそうなひょこひょこおじさん”」


「なにそれ?」


「むかし読んだ小説に出て来たんだ」


「いまの私みたいなの?」


「かわいそうな感じがね」


「ひっどいなあ、こんなかわいい子つかまえて」


「カワイクてカワイソウな感じが似てるんだよ」


     *


 こんどは康花がクスクスと笑い、天井の染みから目をそらした。


「いまの言い方じゃ――」そう康花は続けようとして、


「分かるよ」そう伊純は応えた。「バカみたいに笑ったんでしょ?」



(続く)

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