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第五話:ネコとクジラとユリノキ台のひょこひょこおじさん(その8)

 天保の大飢饉の終わりごろ、名前は忘れてしまったが、関東のある小さな村に、憔悴しきった大きなクジラが流れ着いたことがあった。


 この小村も、日本各地の他の小村と同じく、多くの餓死者を出しており、残された人々も腹をすかせ、打ち上げられたクジラとおなじくらいに――それ以上に憔悴し切っていた。


 不自然な形で、身動きも取れず、ただただ息をしているだけのこの巨大な訪問者に、村人たちは我と我が身を重ね合わせでもしたのだろうか、みなが皆、仕事の手を止め、日に一度、いや二度三度と、浜まで見物に出かけていた。――がしかし、数日たっても彼女は死ななかった。


 四日経ち、五日経ち、雨が降って、風も吹いた。――が、それでも彼女が死ぬ様子はなかった。


 しかしそれでも、村人たちは毎日のように、彼女の様子を見に浜まで出かけていた。


 すると、そんなある日、あるひとりの老婆が、大きな鍬を持って彼女に近付いて行った。


 彼女は、その黒く、巨大で、てらてらとした光沢のある物体のまえでいちど手を合わせると、しばらくの間なにか念仏めいたことをつぶやいていたのだが、意を決したのだろう、更に数歩彼女に近付くと、その脂肪でずるずるとした肉をくり抜き切り取り、いそいそと家まで持ち帰って行った。


 それから、そんな老婆の行動を見ていた他の村人たちは、それぞれがそれぞれ、無言のまま、それぞれの家へと戻ると、その夜から、ほぼ毎晩と言ってよいほどの頻度で、それぞれがそれぞれの道具を持っては、彼女の眠る浜へと出かけ、それぞれがそれぞれ、人目を忍びながら、それぞれがそれぞれ、彼女の欠けらをそれぞれの家へと持ち帰った。


 彼女は、奇妙な傷口をいくつも空けつつ、それでもなお、それからまだ十日ほどは息を続けていたそうで、彼女がいたその浜辺には、いまもまだ、彼女のための、小さな塚と祠が残されているそうである。


    *


「本当に一度も会ってないのかよ?」


 と、呆れた声で三尾漱吾 (31)は訊き、


「会ってもないし連絡も来てないよ?」


 と、まるで他人ごとのように樫山泰仁 (31)は答えた。


「まあ、忙しくて慌ただしい人だしね」


「忙しいったって……」と、リビングに置かれた本棚を一瞥してから漱吾。「お前はそれでさびしくないのかよ?」


 樫山家には都合4台の本棚がある。


 ひとつはリビングに、残りの3台はそれぞれ泰仁の仕事部屋その1とその2、それに元は詢子が使っていた8畳の洋間に置かれている。


 そうして、それらの本棚には、詢子の部屋のものを除き、泰仁の資料と趣味を兼ねた各種の本やマンガと、それに泰仁が書いた小説の類いが置かれている。


 それは今しがた漱吾が目をやったリビングの本棚も同様であり、そこには先ほどのテレビアニメの原作にもなったという泰仁の小説が置かれているわけで――、


「だってお前は」と、だからこそ漱吾は続ける。「――会いたいんじゃないのかよ?」


 この彼の言葉に樫山は、そんな彼の目のうごきを見逃さなかったのだろう、自分でもいちど本棚のほうを見てから、


「そりゃあ会いたいさ」と言った。「もちろん“あの人”だけじゃなく、他のひとたちにもだけどね」


「だったら――」


「いいんだよ」


 と、漱吾の目を見ながら樫山。


「いまはお前たちがいるし。詢子もああだし、フェンチャーチのことも、バカみたいに抱え込んだ仕事のこともある」


「そう……なのかも知れないけどさ」


 そう言いつつ漱吾はそれでも、彼自身の恋愛遍歴は棚に上げたまま、せめてこの友人には幸せになって欲しいとの想いから、


「それでも、お前から連絡ぐらいしても――」


 と、しぼり出すように言った。


 すると樫山は、この友のいつにない真剣さから話がすれ違っていたことにようやく気付いたのだろう、ワザと驚いた顔をしてみせてから、


「あのな、漱吾」


 と、言った。


「ずっと言ってるけど、あの人とは本当に“そーゆー関係”じゃないんだ」


     *


「たしかにあんたにとっちゃそうかも知れないけどさ」


 と、日向康花 (29)が佐倉伊純 (29)に言った。


「私は、その“マーリン”を一日中聞かされるんだよ?“マーリン”が席につくまで「いただきます」は言わないし、お風呂だって“マーリン”が恥ずかしがるからって私や旦那とは入らない。ベッドだって「マーリンのため」って半分空けて寝てるんだから――たまったもんじゃないわよ」


 ここで康花は、シンク台の上に置きっぱなしたウイスキーボトルに目をやったのだが、直後あらためて時計を見ると、いまいましそうにそのボトルを手に取り、冷蔵庫の野菜室へとしまった。


 それから今度は伊純が、そんな彼女のようすに気付きもしない様子で、


「でもさ、その“マーリン”って男の子なの?女の子なの?」


 と言った。


「男か女かだって?」と、康花。「知らないわよ、そんなの」


「でもさ、例えばどっかに好きな子がいて、その子のことを想って――っていうかその子の代わりに?ガールフレンドにしてるってこともあるんじゃない?」


「それはないわね」と、食器棚を開けながら康花は言う。「ガールフレンドなら他にもちゃんといるもの。年少のころから一緒だった子で、あっちもまんざらじゃない感じよ」


「そうなの?」


「あの年ごろは優しいだけでもてるからね」


「だったら“マーリン”は男の子かな?」


「かもね。変な剣だか杖だか持ってるそうだから」



(続く)

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