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第五話:ネコとクジラとユリノキ台のひょこひょこおじさん(その5)

「さて、と」と、コンパクトのなかの自分を確かめてから (注1)樫山詢子 (27)は言った。「それじゃ私、そろそろ帰るわね」


「あれ?」と、立ち上がり掛けた妹を見ながら樫山泰仁 (31)がそれに応える。「食べていくんじゃないのかい?」


「グリコが来る予定になってんのよ」


「なんで?」と、こちらは2本目の缶ビールを開けながらの三尾漱吾 (31)。


「なんか下の階のひとが部屋を水びたしにしたらしくってさ、昨日から工事の機械?かなんかの音がひっきりなしなんだってさ」


「水びたし?」


「詳しいことは知らないけど、暑いしね。――プールでも作りたくなったんじゃない?」


「プール?」


「いや、だから知らないんだけどさ。――で、そのおかげで夜もうるさくて眠れないからってウチに泊めて欲しいんだってさ」


「へえー」


「で、猪熊先生のところが終わり次第うちに来る予定」


「伊純は?」


「今日は朝から千葉のお友だちのところ。夕方には戻るって行ってたから、途中から来るかもね」


     *


「それで列のいちばん前には黒いスカーフのおばあさんがふたりいて、その間にまっ白な、ウェディングドレスみたいな衣装を着た女の子がいたんだってさ」


 と、三杯目のハイボール用のレモンを切りながら日向康花 (29)は言い、


「――こう、片足でぴょんぴょん跳ねながらね」


 と、自分でも見ていないはずの少女の物真似をしてみせた。


 すると、


「それ、本当のはなし?」


 と、そんな彼女の旧友・佐倉伊純 (29)が、いまだ酒のまわり切っていない頭で返して来た。


「ほんとの話さ、マーサから聞いたんだから」


「マーサ?マーサってだれよ?」


「いただろ?ほら、三年のとき同じクラスにさ、目のやたらと大きな――」


「ああ、真麻か、小林真麻」


「そうそう、その真麻。その子と三越で偶然あってさ、それで白井先生のお葬式のはなしになったの」


「三越ってどこの?」


「日本橋のほう。そこでベビー用品のイベントやってたんだ」


「うん?あんたはもう関係ないでしょ?」


「マーサのほうがあったんだよ。アンタ、あの子が妊娠したって聞いてない?」


「妊娠もなにも結婚したことすら知らなかった」


「わたしだって会うまでは――いや、風のうわさでは聞いてたかな。“結婚はしたけれどあまり幸せではないらしい”ってね」


「でも、赤ちゃん出来たんでしょ?」


「あのね、お姫さま」


 と、ここで康花は、出来上がったばかりのハイボールを四分の一ほどひと息に飲み込むと、


「不幸でも、愛してなくても、出来るときは出来ちゃうものよ?」


 そう言って、ふたたび彼女のよこにその小さなお尻を落ち着かせた。


「そういうの、あんま聞きたくないなあ」と、伊純はつぶやき、


「“どうして、歌うのかって?”」と、かつての高校時代に鍛えた声色でもって康花は応えた。


「“それは分からないがね、俺は、あのほっそりとした首のながい女と、その女が見せてくれた、まったく他人の顔におなじ表情をうかべる力に、この歌を贈るんだ”」


 すると、このセリフを聞いて伊純は、目のまえに降りて来た彼女の右の手の甲に、すこし熱っぽいおでこを当てると目をつむり、またふたたびクジラだかイルカだかのことを想い出そうとした。


「あんた、ちょっとばかし冷たい女になったわね」


 と、彼女は言い、


「“ぼくにだってそれなりにまもる生活があるから、なにをしてあげられるというわけじゃないけど――”」


 と、歌うように康花は応え、


 ピンポーン。


 と、インターホンの鳴る音がして、クジラだかイルカだかはまたふたたび、スッと海のおくへと逃げて行った。


「ちょっとゴメン」


 そう言いつつ康花は立ち上がると、


「坊主が帰って来たみたい」


 と、崩れたスカートを直しながら言った。



(続く)


(注1)

 第四話“その8”を確認のこと。

 例の映画館での一件以降、「私、もうちょっと頑張ってみるわ」ってことになったらしい。


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