第一話:BL作家と六月の花嫁(その5)
さて。
ギリシャ神話に登場する女神ヘラの名が地球全体どころか東銀河一帯にとどろいているのはみなさんご存知のとおりであるが、それは彼女がオリュンポス十二神の一柱であり、かつ“神々の女王”でもあったからなのだが、その権威・権力はローマ神話のジュノにまで引き継がれ、彼女は「結婚」「貞節」を司る女神として、そうして「結婚生活の守護女神」として、なぜか東銀河一帯で、信仰されることになる。
*
「わるい。これはいったい何の話だ?」と、チョコソースがけピスタチオアイスをほおばりながら漱吾が訊くと、
「作者さんのいつもの寄り道が始まっただけよ」と、伊純が応えた。「もうちょっと聞いてみましょ」
*
で、その後ローマ時代に定められた暦の中で彼女は6月を割り当てられることになるわけで、そのため現在の英語では、彼女の名前「Juno」に語源を取った「June」が6月を表わす言葉として使われることになったのである。
そう。
つまり、巷間言われている『6月の花嫁 (ジューン・ブライド)』とは、6月に結婚することで花嫁に彼女 (=ジュノ)の加護を期待する風習から来ているものなのである。
*
「なるほど」
と、こちらは問題の花嫁や樫山たちとは遠く離れた向学館地下食堂で休憩がてらのココアを飲んでいる坪井東子 (30)である。
「それが“雨に濡れた花嫁は幸せになれる”とかって言い伝えにもつながるんですね」
すると、そんな坪井の言葉にかぶりを振りつつ、彼女の上司・本田文代 (54)は言った。
「それにはまた別系統のお話があるそうでね――」
「え?」
「なに?」
「じゃあ、このウンチクまだ続くんですか?」
「ああ、なら、そっちのは端折ってもらいましょうか?」
*
ということで。
山岸真琴 (28)は、“雨に濡れた花嫁”のように見えたが、それでもちっとも幸せそうには見えなかった。
*
「花嫁さんになにかお飲み物でも?」と、青くて大きなバスタオルを持ったこの店のウェイトレス (赤毛・長身)が訊き、
「ああ、そうね」と、そのバスタオルを受け取りながら佐倉伊純は応えた。
「あったかいココアかなにか…………ココアとか大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です」と、喫茶店奥のソファ席に座り直しながらウェディングドレス姿の山岸真琴は言ったのだが、
「えっと……」と、このレンガのようなチョコケーキを持った女性をどう呼べば良いのかすこしとまどっている様子であった。
なので伊純は、
「佐倉よ、佐倉伊純」と、自己紹介をしかけたのだが、
「お兄さん――の妹さんの……」と言ったところでめんどくさくなったのだろう、樫山のほうに向きなおると、
「お兄さん、説明」と、あとは彼にまかせることにした。
すると樫山は樫山で、
「あ、そうか、そうだな」と、真琴の横に座り直しながら言った。
「えーっと、詢子は覚えてるよな?」と、まずは詢子を手で指しながら樫山。
「で、その大学の同期で佐倉伊純くん」と、反対の手で伊純を指す。
「よろしく」と、樫山たちとは反対の席に座りながら伊純。「イスミって呼んでね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「で、こっちが――」と、伊純の横に座ろうとしている漱吾を二本の指で差しながら樫山。
「三尾漱吾って言って、僕の大学の……なんだったっけ?」
「さあ?学食で隣になったとかじゃなかったか?ゼミもサークルもぜんぜん違ってたし」
「ま、とにかく、くされ縁みたいなもんだ」
と、ここまで言って樫山は、ソファのそばで立ったままの詢子に座るよう促しながら、
「で、こっちは山岸真琴くん」と、続けた。
「クリケットをしてた頃の後輩で…………たしかいまは荻窪に住んでるって言ってなかったか?」
「あ、そうなんですけど――」と、真琴。
バスタオルのおかげで髪はだいぶ乾かせたようだが、いかんせんホルターネックタイプのドレスだからまる出しの肩と背中が寒そうだ。
するとここで樫山は、
「ああ、ちょっと待って」と言って着ていたジャケットを脱ぐと、
「取り敢えずこれを着な、なんだか寒そうだ」と、真琴に渡した。
「あと、その頭のひらひらしたやつも取っておこうか?」
「ひらひら?」
「やっぱり目立つからね」と少しおどけた口調で樫山。
「もしも追っ手が来たら、そのひらひらで一発で見付かっ……来ないよな?追っ手?」
*
「あのー、ここんところ“追っ手”としか指示がないんですけど――」と、森永久美子は言った。「どんな感じの“追っ手”にすれば良いですか?」
と、こちらは、引き続き絶賛修羅場継続中のカトリーヌ・ド・猪熊先生の仕事場である。
「あー、そこねー、私もどんなのが良いか迷っちゃっててねー、グリコちゃんどう想う?」
カリカリカリ。
と、一瞬たりともペン先を止めようとしない体勢で我らが猪熊先生。
すると、この問いに我らがグリコは、
『どう想うも何も、この先の展開並びに花嫁&追っ手の素性も正体も教えて貰ってないのに答えられるわけないじゃないですか――』
と、コンマ数秒ほど悩んではみたものの、これまでの長い長いアシスタント経験から、
『……みたいなことを言っても、はかばかしい回答は返って来ないんだろうなあ、多分』
と想い直すと、
「なら、コ〇ン君に出て来るような?あんな感じでどうですかね?」と、訊いた。
すると、この問い掛けに我が意を得たのだろうか我らがカトリーヌ・ド・猪熊は、
「ああ、そうね」と、ほんの一瞬だけペンを入れる手を緩めると、
「なら、それでお願い」と言って、ふたたび岸辺●伴さながらの速度と正確さでもって原稿へともどって行った。
シバシバシバシバッ、シバァッ!!!
と疾走るペン先には真剣勝負に赴く剣豪のごとき熱気と気合いが込められていたが、それはさておき出来上がった漫画は、胸がキュンッとなって口のなかが甘酸っぱさで満たされるような、とってもビター&シュガーな少女漫画であった。
――閑話休題。
*
「じゃあ結婚式から逃げて来たりしたワケじゃないんだ?」
と、届いたココアを渡しながら伊純が言い、
「はい。このドレスは撮影用のもので――」
と、届いたココアを受け取りながら真琴は言った。
「だから返しには行かないといけないんですけど……もう、そんなこと考えている余裕もない感じだったんで――」
(続く)




