第五話:ネコとクジラとユリノキ台のひょこひょこおじさん(その1)
ある日の日曜日。
佐倉伊純 (29)は、近所の子供たちの笑い声で目を覚ました。
その日は休日で、もう少し寝ていても良かったのだが彼女は、それでもそのままぼんやりとした頭のままでベッドを脱け出すと、ぼんやりとしたまま顔を洗い、ぼんやりとしたまま髪を整え、ぼんやりとしたまま洗濯機をまわしてから、ぼんやりとした頭のまま昨夜の残り物の朝食を済ませた。
そうして、しばらくすると洗濯機が終了のサインを送ってくれたので、洗面所に向かおうとしたところでDVDの返却期限が今日までだったことを想い出した。
洗濯ものを干し、服を着替え、軽い化粧をしてからマンションを出て、ちょっとあくびをしようとして、彼女はすこしおどろくことになった。
それというのも、道のところどころに、つたないが懸命なチョークの文字による落書きがされていたからである。
それはたとえば、
車のまえには“じようようしや”
電柱よこには“でんしんばしら”
手前のポストに“ゆうびんうけ”
といった具合で、色は多くても赤・青・黄色の三色ほどかとは想うが、どうやらこれらは、この道のずっと先まで続いているように見えた。
『なるほど、さっきの笑い声はこれか』
そう気付くと彼女は、彼らの行き先がレコード店とは反対方向であったにも関わらず、この落書きを追いかけてみることにした。
“かべ”
“こんびに”
“かいだん”
“ばいく”
“ほどうきよう”
“があどれいる”
“こうえん”
“ぶらんこ”
“てつぼう”
“ぶうげんびりあ”
“すべりだい”
と来て、公園を飛び出して行ったのだろう。
もうすこし追いかけたところで、
“ねこ”
と、白いチョークの文字が出て来て、この遊びは終わったようであった。
不意をつかれた彼女は、しばらくその場に立ち尽くし辺りを見まわしていたのだが、それでもやはり、猫も子供も、すでにどこかへ消えてしまっていた。
*
「それでは、そこに我がクワランも加えて頂けますか?」
と、テレビの中で言ったのは、知恵の女神ナイエテと見紛うばかりの自慢の赤髪を三つに編み込んだ旅装姿のジュージャ・ミシトース・エルテス――惑星エシクスのエルテス王が一人娘であった。
すると、この突然の姫君の登場に、
「ねえねえ、このひと、喫茶店のあの子に似てない?」
と、テレビのこちら側で樫山詢子 (27)は言った。
すると、この問い掛けを自分宛てのものだと受け止めたのだろう三尾漱吾 (31)は、
「それを言い出したらさ」と、となりに座る彼女のほうにからだを傾けながら言った。「あの関西弁のひとなんかそっくりじゃないか」
「あ、やっぱ漱吾もそう想う?」と、声を落としながら詢子。
「バレバレだよ」と、こちらも調子を下げながら漱吾。「なんだあのバカ、まだ未練があんのか?」
「ねえ、見た目もだけど、話しかたとかほんとそっくりだもんね」
「樫山はこれどこまで噛んでんだ?」
「それが知り合いの知り合いから聞いたんだけどさあ、歩き方とか話し方とか?あと身振りとかちょっとしたクセとか?徹夜で監督さんに説明したらしいわよ」
「なんと言うか、ちょっとキモイな」
「あ、ほら、いまの頭を掻くところとか」
「あー、そうそう。あんな感じだった」
「すみません。さっきからなんの話してるんですか?」と、ここで会話に割り込んで来たのは詢子をはさんで漱吾とは反対側のソファに座っていた山岸真琴 (28)である。
「あ、そっか、真琴さんは知らないもんね」
「知らないって何をですか?」
「そっくりなのよ」
「そっくり?」
「むかしの兄さんの……あれはなんて言えばいいのかしら?」と、漱吾のほうを向きながら詢子が訊き、
「恋人……ではないし、友だち……っていうのとも違ったような……」と、彼の語彙にはないカテゴリーを必死で探しつつ漱吾が応える。「でもまあ、美人は美人だったぜ」
「“想い人”みたいな感じですか?」と、真琴が言い、
「ああ――」
「だいぶ近いな」
と、ふたりは答えた。
『先輩にそんなひとが?』と真琴は想い、『巨乳にしか興味ないのかと想ってた (注1)』と、画面の中のアニメキャラ――のまっ平らな胸を見ながらすこし眉をひそめて見せたが、
そこで――
ジャアーー。
と、トイレの流れる音がして、この会話はここで途切れることになった。
問題の“あのバカ”こと樫山泰仁 (31)が戻って来たのである。
(続く)
(注1)
「胸の大きな女性が好きなわけではない。愛した女性の胸が、たまたま大きかっただけだ」とは、樫山泰仁の自伝小説『小説家どろまみれ』の扉に掲げられた文句であるが…………なんでこんなウソを平気で書けるかなあ。




