第四話:グリコとキョロ(その13)
「ダメ!もう完全にダメ!!」
と、店内に入って来るなり世界の終わりのような顔で樫山詢子 (27)は言った。
「もう!ぜんぜん!降りて来ない!!」
そういう彼女の腕には数冊の大学ノートがあるのだが――、
「降りて来ない?」
と、こちらは三連休の第一日を雰囲気だけでも味わおうとちょっと豪華なティータイム (注1)を取っていた佐倉伊純 (29)である。
「なにが降りて来ないの?」
そう言われて詢子は、
「“なにが降りて来ないの?”」
と、伊純の声真似をしつつ――不機嫌モード全開ですね先輩――彼女の前のテーブルにそれらの大学ノートを置くと、
「ネームに決まってんでしょ?!」
と、その中身を開いて見せた。
なるほど。
たしかに大学ノートのなかにはBLマンガのネームらしきものがいくつも書かれているのだが (注2)――、
「これ、ひょっとしてむかしのやつ?」と、眉をひそめながら伊純が訊き、
「いいでしょ?!そろそろ描き始めなくちゃ間に合わないのよ!」と、伊純につめ寄りながら詢子は答えた。
「どれならバレないと想う?!」
*
なるほど。
たしかに。
この宇宙には『熱力学の第一法則及び第二法則』とかいう厄介な法則があるため、この宇宙のエントロピーは絶えず増大を続けている。
で。
この“エントロピーの増大”というやつは、実は“情報の減少”をも意味しているワケであって、それは“熱が冷たい水から温かい水に流れ込むことがあり得ない”のと同じように、“情報がただで得られるということはあり得ない”ということをも示している。
で、あるからして。
それはつまり。
小説やマンガのアイディアなどと言うものも情報の一種である以上、
どんなに頭をひねってみても、
どんなに担当編集者に尻をひっ叩かれたとしても、
アイディアが出ない時は絶対に出ないし、
それを毎月毎週当り前のように出せと言われても、
それは毎月毎週奇跡を起こせと言われているようなものであるわけなのだが、
しかしながら、
世の人々、
特に編集者と呼ばれる人種においては、
この辺りの物理法則を理解することは大変に骨の折れる、
不可能事に近いことらしく、
彼ら彼女らは、
担当作家の尻をひっ叩くだけでは飽きたらず、
飲み屋まで追いかけて来たり、
真夜中にメールを打って来たり、
朝っぱらから電話を掛けて来たりしてさあ!!
それってどうかと想いませんか?!
ねえ!!
神さま!!!!! (落ち着け)
*
「あのお、すみません」
と、そんな作者の叫びもどこ吹く風に、この店の看板ウェイトレス (赤毛・長身)が詢子に声をかけた。
「お水、ここに置いておきますよ」
「ねえねえ、お姉さんもいっしょに考えてよ」
と、男性同士がベランダで (*自主規制)をしているであろうページをウェイトレスに見せながら詢子。
――って、ちょっと待った!この子 (高校一年生)にそれは早過ぎる。
「なんですか?これ?」と、ウェイトレス。
――ああ!見ちゃダメ!
「マンガの設計図みたいなものなんだけど、お姉さんが気に入ったのないかなあ?」
――おいこら、詢子さん!
「へー、でも私マンガってよく分からないですよ?」
――ああ!それ以上ページをめくらないで!!
「いいのいいの、そういう純粋な子の意見も聞いておきたくってさあ――」
――オッサン編集者みたいなこと言うんじゃない!!
「ふーん。でもわたし本当に漫画はカトリーヌ先生とかがメインで――」
――ああ!そっからはキッツイ描写が!!
――ええい!こうなったら!!
ブー、ブー、ブー。
と、ここで突然、このお話の作者の特殊能力により、テーブルの上の詢子のスマートフォンが鳴った。
そのおかげで――、
「あれ?スマホ鳴ってますよ?」
と、赤毛のウェイトレスはページをめくる手を止めてくれたのだが――、
「出なくて良いんですか?」
「いいのいいの、どーせ担当とかだから」
「はあ」
「それよりもさ、そっからが面白いところだからさ、読んでみてよ」
と詢子が言ったので、このお話の作者は、
『そうはさせるか』
とばかりに更なる特殊能力でもって、
「あ、でもこれ、江崎くんからだよ?」
と、伊純さんに言わせることに成功した。
「出たほうが良いんじゃない?」
そのおかげで、
「え?江崎くん」と言って詢子はスマートフォンを取り上げ、
「あの、そう言えばご注文は?」と言って赤毛のウェイトレスはノートを閉じた。
そんでもって、
「あー、じゃあ、エスプレッソ、大盛りで (注3)」と、詢子は応えると、
ピッ。
と、嬉々として電話に出てくれた。
そうして、そのため、どうにかこうにか、(*検閲ガ入リマシタ)な詢子のネームは未成年の目に触れずに済んだのである。
――あー、疲れた。
*
「あ、もしもし江崎くん?どしたの?急に?
え?電話をかけろって言われたような気がした?――誰に?
メガネで?ベレー帽で?貧相な顔した誰か?――なにそれ?
あー、でも、ほんと誰でも良いわ、江崎くんにかけろって言ってくれたんなら。
え?うんうん。そうなの、ぜんぜん降りて来なくってさあ、困ってたのよ。
やっぱり私は才能がな――、
え?……あー、そんな、よしてよ…………うんうん。
いや、しかしそれでも、…………あー、なるほど。
え?ジャスティン・リー・ランガー?……誰それ?
いや、そんな話も格言もはじめて聞いたけど (注4)…………へー、やっぱ博識なんだね、江崎くん。
うん……うんうんうん!
え?……あー、でもそんな人……え?…………あー、……うん。うんうんうん。
そうだよね、待っててくれているファンの人たちのためにもだよね。
ごめん……なんか涙出て来……だめよ、そんなおばさんからかっちゃあ (笑)
え?……ほんとにそう想う?…………そんな嬉しいこと言ってくれたの、江崎くんが初めてだよ。
うん……うん。そうだね。なんだか描けそうな気がして来た。
うん。勇気出て来た!
ほんと、ありがと、こんどなんかご馳走させ……いいの?でもそれじゃ私の気持ちが…………ほんと?……ごめん。なんかまた涙が…………。
うん?うんうん。分かった。もうちょっと頑張ってみるね。
ほんと!ありがと!ありがとね!!」
カチャ。
そうして詢子は電話を切ると、テーブルのうえに散乱していた (えげつない部分もある)ネームノートをまとめ始めた。
「江崎くん、なんだって?」
と、伊純が訊いて来たので彼女は、
「頑張れ…………って」
と、遠い目をしながら応えた。
すると、丁度そこに赤毛のウェイトレスが大盛りエスプレッソを持ってやって来たので詢子は、
ガッ。
とばかりにカップを取り上げ、
ゴクゴクッ。
とばかりに一気に飲み干し――大丈夫かな?
ダンッ。
とばかりにカップを置くと、
「わたし、やってみるわ!」
と言って戦場 (仕事部屋のあるマンション)へと戻って行った。
会計を済ませていると、顔を真っ赤にした厨房係 (黒髪・長身・男によく間違われます)に握手を求められた。
*
「とまあ、右のような感じなんです」と、森永久美子 (24)が言い、
「なるほど。確かに詢子ちゃんの方もかなり面倒な感じね」と、カトリーヌ・ド・猪熊は応えた。
「伊純さんはなんだかんだでまだ大人だから良いんですけど」
「詢子ちゃんはある意味純真だからね」
「これでまた暴れ出したりスケ管グダグダになったりしたらどうしようかな?っては想ってます」
「うーーん?でもそこまでグリコちゃんが気にすることもないわよ」
「でも――」
「また暴れ出したりスケ管ダメダメになるようなら私のところに電話させなさい」
「いいんですか?」
「この女猪熊、かわいい後輩たちのためなら一肌でも二肌でも脱ぐわよ (注5)」
(続く)
(注1)
とは言っても所詮は『シグナレス』なので、一点豪華主義的超高価スイーツがあるわけもなく、今回は“イチジクタルト”と“白桃ケーキ”と“三種のベリーのタルト”を三つ同時に頼むという暴挙に出てみました。……ダイエット?なにそれ美味しいの?
(注2)
ネームといっても詢子さんの場合は結構書き込むタイプなので (特にラブシーン)、誰がなにをどうやっているかまで素人目にもハッキリ分かっちゃったりする。……うん。昼間っから公共スペースで開いて良い代物じゃないよ、詢子さん。
(注3)
このお店には何故か通常のエスプレッソ5杯分の『特盛♡エスプレッソ』なるメニューがあったりする。……大丈夫かな?
(注4)
第三話“その5”ならびに“その6”を確認のこと。
ほんと、ひとの話を聞いてないんだな、このひと。
(注5)
実際、日本全国津々浦々の漫画家連中からお悩み相談の電話がよくかかって来るらしい。
――頼られてるんですね、先生。
「と言ってもやることは全部一緒だけどね」
――と言いますと?
「悩みを聴くだけ聴いて、深く同情したふりをして、“アンタなら出来る”って言っておしまい」




