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第四話:グリコとキョロ(その10)

 ということで。


 だれの願いが届いていたのかまでは分からないが、ずっと持ちこたえていた雨もいよいよ降りはじめ、『家にもどるまでは大丈夫だろう』と高を括っていた人たちを容赦なくぬれねずみにしようとしていた。


 映画館を出、映画の興奮冷めやらぬままに互いの感想を語り合っていた樫山詢子 (27)と山岸真琴 (28)も、この“高を括っていた”ほうの人間で、彼女と彼は四谷三丁目から千駄ヶ谷までの道を傘の準備も十分ではないまま――具体的に言うと真琴の持っていた折りたたみ傘しかないまま――歩いており、その道の途中で、この降りはじめた雨に対抗することとなった。


「もっとこっち来ないと濡れちゃいますよ」と、真琴は言い、


「でも、あんまりちかいのもやっぱり――」と、詢子は返した。


「風邪でも引かれたら困りますから」


 そう真琴は言うと、なかば強引に――とはいかないまでもそれなりの積極性を持って――詢子の手を取り彼女を引き寄せた。


 それから、


 そうは言っても、


 実は十分な大きさの傘ではあったのだけれど、


 雨の日の男たちがずっとそうであったように、


 それでもやはり、


 彼の肩は、ずっと雨で濡らされることになった。


     *


「あれ?」


 と、降り出した雨から逃げるように上石神井駅へと飛び込んだ樫山泰仁 (31)は誰に言うでもなくつぶやいた。


 というのも、反対側の電車から、見知ったクラゲオバケがピョコピョコピョコと降りて来るのが見えたからである。


「おーい」


 と、樫山は手をあげ彼 (彼女?)に声を掛けようとしたが、周囲にチラホラと人影のあったこと、こちら側のホーム裏手に駅前交番があったことを想い出すと、その上げかけた右手を下げ、ただ彼 (彼女?)が駅の階段をヒョヒョヒョヒョヒョヒョとばかりに上がって行くのを見送るだけであった。


「ま、サイン本はあげたし、いいだろう」


     *


「クラゲがどうとかこうとか言われても分かんないけどさ、結局は色恋のこととかで悩んでるんじゃないのかい?」


 と、そう早口でまくしたてるのは、森永美都子 (74)である。


「めずらしくカワイイ格好してると想って『あら?』ってよく見たら髪も化粧もぼろぼろで情けないったらありゃしない。

 おおかたフッたとかフラれたとかしたんだろうけどさ、そんな時はひとりで悩むより友だちとか先輩のとこに行って相談するとか、キレイでいつまでも若々しくて肌年齢マイナス20才で『まあ、奥さま素晴らしい!』ってお医者さんに驚かれるうえに知恵と知識と頼りがいの塊のようなおばあさまのところに話を聴いてもらいに行くとか…………ああ、だからここに来たのかい?」


 ということで。


 ここは埼玉県との県境にほど近い某国某都某練馬区某光ヶ丘にある彼女の――森永久美子 (24)の祖母である美都子の――一人住まいのオンボ……古風な一軒家である。


 四ツ谷三丁目の駅で例のクラゲオバケを見かけた久美子は、まるで誰かに背中を押されたかのように彼 (彼女?)の乗る地下鉄丸ノ内線へと乗り込み――って、肝心のクラゲオバケは?


「それが新宿のあたりで見失ってしまいまして――」と久美子が言い、


「それでそのままここまで来たんだとさ」と、美都子が続けた。「ってか、なんでアンタまでそんな幻想だか妄想だかを信じるのさ?」


 ――あ、いや、私も見かけたことがあるもので。


「だから、それもアンタの幻想だか妄想だ――って、そもそもアンタだれ?」


 ――あ、ご紹介が遅れましたが、私この物語の作者をさせていただいております樫――、


「え?なに?あんた作者さんなの?」


 ――まあ、一応は。


「だったら黙って横で見てなさいよ、お話ならアタシたちがキチンと進めてやるからさ」


 ――あ、はい。


「だいたい文章力や構成力に自信のない作者さんに限って自分が表に出ようとするんだろうけどさ、あんまいい趣味じゃないよ?」


 ――……はあ。


「だから久美子のことも……って、なんの話をしようとしてたか忘れちまったじゃないか」


 ――あ、それはですね!


「ああ、想い出した。久美子の失恋だかなんだかの話だったね」


 ――あ、いえ別に失恋したわけではなく。


「ああ、はいはい。とにもかくにも男関係の……って、まさかアンタが?!」


 ――ちがいます、ちがいます。さすがにそれはちがいます。


「なら良いんだけどさ、貧相なツラした駄文書きとかアタシが許さないからね」


 ――はあ。


「ま、じゃあ、ここは女としての大先輩である私の恋愛エピソードでも――」


 ――あ、その前に森永さん。先ずは一応クラゲオバケの消息もですね。


「いいんだよ、そんなの別に。それよりもみんなが聞きたいのは色恋の話のほうだろ?」


 ――はあ。


「さ、ということで、さっさと話の続きをさせておくれよ」


 ――はあ。(注1)


     *


 ということで。


「だったらそうだねえ――」と、そんな作者の存在などどこ吹く風で美都子は続ける。「おじいさんとのことは話したことあったっけ?」


「おじいちゃん?」と、すこし戸惑った様子で久美子。「――どの話?」


「バカだね、この子は」と、安物のパイプイスをキシキシきしませながら美都子。「色恋の話だろ?馴れ初めに決まってんじゃないさ」


「……ラジオの受信料を立て替えてもらったって話?」


「そうそう。廃止が決定してもしばらくは払わなくちゃいけないのを……って、ちがうよ」


「最後のチョコボールをどっちが買うかでもめたんだっけ?」


「あー、たしかリ●ちゃん人形が発売されたののと同じ年だったから……って、それもちがうよ」


「だったらどの話よ」


「まったく……おじいさんが船に乗ってたのは知ってるだろ?」


「……そうなの?」


「なんだ知らなかったのかい」


「整骨院のひとなんじゃないの?」


「あー、あれは三つ……四つ目の商売でね。あんたが生まれるころにはそれで定着してたんだけどさ」


「四つ目ってのもはじめて聞いた」


「ま、無口で愛想のないひとだったからね――」


 と、ここで美都子はイスにすわり直すと、テーブルのうえに置いていたペットボトルを手に取り、そのフタを緩めながら、「ま、そこにホレ――だまされたってもあるけどさ」と言って、ボトルのなかの麦茶をひと口飲んだ。


「ある時だよ」と、強くなった雨風で窓がきしむのを少し疎ましく感じながら美都子。


「また海に出るって言うからさ、友だち何人かと千葉まで見送りに言ったんだよ。――ま、遊び半分だけど。

 で、その時、船が出るまでけっこう時間があったんだけどさ、あのひとが、みんなからちょっと離れた、港のはしっこのほうに立ってたんだよね――海のほうを見てたんだろうね」


 ガタン。


 と、ここで不意に、窓のそとでなにかが動く音がして、美都子と久美子はその窓のほうを見たのだが、数秒も経たないうちにふたりとも、まるで何事もなかったかのように視線を元の位置に戻した。


「――でね」と、美都子。


「そのとき、海を見ているあのひとの姿がすごくキレイでさ。

 そこで私は“ああ、このまま時が止まってくれればいいのに”って想ったのさ」


 それから彼女は、ここで言葉を切ると、なぜか再び、先ほどの窓のほうを見た。


 すこしだけ、窓辺のカーテンが動いたような気がしたのだが、それもやはり、彼女の幻想だか妄想なのかも知れない。


「あんたのお父さんやお母さんにも同じようなことがあったのかも――もう分からないけどさ」と、視線を戻しながら美都子が言い、


「おばあちゃん……」と、久美子は言った。「いまの話、私となんの関係が?」


 プッ。


 と、美都子は笑い、


「ほんと女子力の“じょ”の字もない子だね」


 と、グリコの頭をガシガシとなでまわした。


「“時が止まってくれれば”って想えるような相手なら、間違いないって話をしたんだよ」


 ガタン。


 と、ここでも再び、窓のそとでなにかが動く音がした。


 したのだが、なぜか今度は、美都子も久美子も、そちらを振り向くことも物音に気付くこともなかった。


「そうじゃないんなら、あんたのためにも相手のためにも止めときな。――互いを嫌いになる前にね」



(続く)


(注1)

 問題のクラゲオバケは新宿で西武線に乗り換えて上石神井まで戻った……のはご案内のとおりで、あの後そのまま赤毛の女性の待つホテルへと帰って行った模様。――飛んで帰るのは疲れるんだってさ。


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