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第四話:グリコとキョロ(その9)

「しかし、なんでまたここのホテルに?」と、樫山泰仁 (31)が訊くと、


「本部を出る前に教えてもらったんです」と、テーブル向かいの女性は答えた。「泊まっているのはみんなイギリス人だから安心出来るだろうって」


 そう言いながら彼女は、たったいま彼がサインを入れたばかりの単行本の数を確かめると、


「みんなイギリス人か変人か、イギリス人で変人か、イギリス人で変人でロックスターな男が『復活』の単行本を読んでいるようなホテルなんだそうです」


 と続けた。


「『復活』?」と、樫山が訊き返し、


「まあ、たしかにそういう人物もいましたよ」と、赤毛の彼女は応えた。「読んでたのは『悪霊』でしたけど」


     *


 ということで。


 ここは某国某都某練馬区にあるホテル『テンポ・ルバート石神井台 (注1)』の某待合ラウンジである。


 時間が早いこともあってか彼ら以外に客はおらず、下戸の樫山はホットジンジャーを、“アイルランド人もビックリ”な肝臓を持つ英国人の彼女も、樫山に付き合って紅茶にシナモンチェリーパイのセットである。


     *


 ――というかご先祖はスコットランドでしたっけ?


「さかのぼればハイランドまで行くそうですね」


 ――ハイランドってネス湖とか?


「わたしは行ったことないですけど」


 ――じゃあ、その見事な赤毛も先祖代々?


「っぽいですね。ご先祖さまの写真とか見ると軒並み似たような赤――って、私にもこの手法使うのやめてくれません?」


 ――この手法?


「ふつう、作者と登場人物が話すなんてのはご法度ですよ?」


 ――でもデッ○プールとか。


「あんなキチ○イキャラといっしょにしないでください」


 ――はあ。


「さ、分かったら本編を続けてください」


 ――はいはい。えーっと、


     *


「はい。30冊確かにいただきました」と、樫山泰仁サイン入り単行本を“見た目よりも中が広い”青色のカバンにしまうと女性は「これで晴れて自由の身ですね」と、ほほ笑んで言った。「副本部長もよろこばれますよ」


「最後の3冊はあのかた向けですね」


「“保管用、鑑賞用、いつか誰かに高値で売る用”だそうです」


「はあ」


「でも先生もラッキーですよ、副本部長がファンで」


「……ですね」


「“本部”の上の方々の中にはいまだに『消しておかなくて良いのか?』って言うひともいますから」


「そちらが言われると冗談に聞こえませんが……」


「“本部”への無断侵入ならびに無許可でのサイン会開催からの女性メンバーとの連絡先交換ですからね (注2)――希望者向けサイン本だけで済んだのは奇跡みたいなもんですよ」


「でもまさか一千冊近く書くことになるとは……」


「本部向けが142冊、各支部向けが計857冊だから……999冊ですね」


「ストーンさん向けにも書きましたっけ?」


「ああ、私はファンでもなんでもないので結構です」


「はあ」


「あ、でも相棒用に一冊お願いしとこうかしら?」


 そう言うと彼女は、手にしていた紅茶カップを皿へと戻し、今度はまた別の“見た目よりも中が広い”上着の内ポケットから一冊の単行本を取り出した。


「お願い出来ますか?」


 彼女のこの問いに樫山は、


「もちろん」と、しまい掛けていたサインペンをふたたび取り出すと、「そう言えば――」と、あたりを伺いながら言った。「彼――彼女?、今日はどこに?」


 すると、この赤毛の女性も少しあたりを伺ってから、


「“ホテルに詰めてるのもシンドイ”って言って」と、声のトーンを落としながら答えた。「都内の方まで散歩に行きました」


「大丈夫なんですか?」と、こちらも声のトーンを落としつつ樫山が訊き、


「連絡は取れるようにしてますし」と、女性は答えた。「いざとなったら逃げ足は速いから大丈夫ですよ」(注3)


     *


 森永久美子 (24)がすっかり意識を取り戻したのは、それから五分ちかくが経ってからだった。


 どのようにしたのかは分からないが、先ほど閉じたはずのベビーシートがまた開き、それを支えとして彼女は立っていた。


 ここで例えば、癇癪持ちの子どもやアニメのヒロインならば、咽喉をひきつらせながら声を上げて泣いていたのかも知れないが、彼女はそのようなタイプの女性ではなかったし、それは彼女自身が一番許せないことでもあった。


『人生最大の悟りとは、ありのままを見、背伸びすることなく、己の力及ばぬ物事があると知ることである』


 彼女は、いま自分のいる場所を悟ると、洗面台のうえに置きっぱなしにしていたカバンを拾い上げ、背筋を伸ばし、スイッチを切り替え、顔がなみだで濡れていないことを確認し、またふたたびパタン。という音とともにベビーシートを閉じた。――扉のボタンを押し、駅の構内へと戻った。


 それから、そうして彼女は、誰もいないアパートへと戻るべきか、それともいつもの喫茶店へと向かうべきか、それとも……と思案するともなしに呆け考えていたのだが、最終的には目のまえの改札をくぐると、反対側のホームへと向かい、荻窪方面行きの電車へと飛び乗ることになった。


 なぜなら、休日東京の地下鉄構内を、ブヨブヨフヨフヨブヨンブヨンした青だか黄だかピンクだかのクラゲオバケが、ポヨポヨヒョヒョヒョヒョピョピョピョピョピョッとばかりに飛んで行くのが見えたからである。



(続く)


(注1)

 『テンポ・ルバート』とは音楽用語で、直訳すれば「盗まれた時間」という意味になる。

 そのため元々は、例えばある音符の音を伸ばすと、その分他の音の長さが短くされる (盗まれる)ことになり、全体のテンポは変化しなかったそうである。

 がしかし、いつしかこの概念は忘れられていき、現代では「柔軟にテンポを変える」という程度の意味で用いられる場合が多いようである。


(注2)

 樫山先生がやってしまったこの辺の不埒な悪行・不行状については、拙作『夢物語の痕跡と、おとぎ話の物語』の第三十五~三十七週に詳しく書いておいた。

 他の女性メンバーには敢えて報せていないが、彼の女性にだらしない一面が垣間見られたりするかも知れません。――ほんと、男って不潔。


(注3)

 ちなみに。

 英国人で英語しか話せない彼女と日本人で日本語しか話せない樫山との会話はすべて全自動翻訳機を用いて行われているのだが、これは英文で会話を書いたり彼女に片言の日本語をしゃべらせたりすることを面倒に想った作者がその場のノリで作った設定ではないことを、ここに付言しておく。

 え?そんな便利な翻訳機があるのかって?――あるんだなあ、これが。

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