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第三話:江崎と森永(その1)

 と、いうことで。


 そんなこんななある日の朝、某国某都某区の某総合運動場公園の某グラウンドに樫山泰仁 (31)は立っていた。


 この日の某国某都某区某総合運動場公園某グラウンドは梅雨の半ばとは想えないほどに晴れわたり、彼の顔にも身体にも大量の汗が流れ出ていた。


 が、いや、この流れ出る汗は太陽のせいだけではないだろう。


 何故なら、彼の見つめるその前方、ピッチ内側・敵側ウィケットのそばには、かつての大昔“光が丘のテンドルカール”とまで呼ばれた強力なバッツマン“カトリーヌ・ド・猪熊”こと茂木和楽 (旧姓・猪熊)が立っていたからである。


『いや、落ち着け樫山。ゲームはまだ我々がリードしている』


 と、樫山は自分自身に言い聞かせようとしたが、彼のチーム“キングス・イレブン・千駄ヶ谷”と相手チーム“石神井・ナイトライダーズ”との点差はたった28ランしか残されていない。


 額から流れ出た冷たい汗が頬を伝い、地面へと落ちた。


     *


「お兄さーーん。ファイト―!!」


 と、観客席に座る佐倉伊純 (29)がそんな彼に声援をおくってくれた。


 “梅雨の晴れ間の晴れ女要員”として呼ばれた彼女は、同じく“梅雨の晴れ間の晴れ男要員”として呼ばれた三尾漱吾 (31)とともに試合を見てくれているのだが、どうも未だにルールを理解しかねているようで――、


「ねえねえ、なんでまだ攻守交替しないの? (注1)」とか、


「なんであのひとたちずっと同じところをグルグル廻ってるの? (注2)」とか、


「なんでいまので8点入るの? (注3)」などと訊いては、


「こんな野球もどきのこと俺に訊かれても分かんねえよ (注4)」と、漱吾に返されていた。


     *


 ボールの感触を確かめる。


 腰にこすりつけて磨き、右手の親指でふたたび感触を確かめてから…………また軽くソッと磨いた。


 味方側ウィケットに立つ山岸真琴 (28)がチラと樫山のほうを振り返った。


 “あれは、自分を信頼している目だ。”


 ――そう、樫山は想った。


 小さくて赤くて硬いボールを左の手から右の手へと移した。


 ――なんだかいつもより重いような感じがする。


 急速はミディアム・ファーストにしよう。


 ――すこし距離が短いだろうか?


 相手を見詰めたまま、後方に数歩下がった。


 空を見上げ、深呼吸をし、ボールを投げ上げ、


 ――そして受け止めた。


『相手に取って不足なし!』


 そう樫山は意を決すると、改めて背筋を伸ばし、


 ――走り出した。


 カトリーヌ・ド・猪熊のバットを握りしめる音がこちらまで聞こえて来るようだった。


 地面を蹴る。


 気圧されては負けだ。


 往年の名バッツマンと言えど、寄る年波には勝てぬはず。


 地面を蹴る。


 ウィケットが近づいて来る。


 無慈悲なほどに静かな表情でカトリーヌがほほ笑む。


 地面を蹴る。


 スピードを落としてはダメだ。


 最後の最後まで全速力でウィケットに向かうのだ!


 宇宙開闢のビッグバンのように両手両足をはげしく振り、小さく、赤く、硬いボールを前方に放っ――、


     *


「やっぱり、この試合の描写は長過ぎますかね?」と、とつぜん坪井東子 (30)が訊き、


「うん、そうね。じゃあ、こっから先はカットで」と、その上司・本田文代 (54)は応えた。


 ここは某国某都某区某向学館某文芸部の某オフィスであり、彼女らふたりを含む編集部員たちは編集作業の真っ最中であり、


「じゃあ、樫山先生にその旨相談しますね?」


「え?時間もないし別にいいわよ、事後承諾で」


 という会話がなんの疑問も持たれず交されるほどにはスケジュールもギリギリのようであった。


 なのでそのため、この後三万三千字にも及んだ、筆者入魂の『キングス・イレブン・千駄ヶ谷 vs. 石神井・ナイトライダーズ』終盤戦の模様はこのままお蔵入りすることになるのである。


 ――ちぇっ。


「と言うか、今回はグリコちゃんのお話なんでしょ?」と、すっかり冷めきったココアをすすりながら本田。「なんでこんなクロケットだかクリックポストだかの描写が必要なの?」


 ――“クリケット”ね、“クリケット”。


「たしか、先生たちとここで初めて会うんですって」と、こちらはこちらですっかり泡の消えたカプチーノをすすりながら坪井。「あと、クロケットじゃなくて“クリキット”ですよ、部長」


 ――惜しい。“クリケット”ね、“クリケット”。


「ああ、スポーツ万能なんだったっけ?」


「“成績優秀・スポーツ万能・温厚篤実・はにかんだ笑顔が最高だった!”って、先生は言ってました」


「なによそれ、べた褒めじゃない」


 ――ほんと、彼が恋しいですよ。



(続く)


(注1)

 野球などという低俗かつ野蛮な競技においては『スリーアウトで攻守交替』などというスピード感だけに配慮した意味不明なルールがまかり通っているようだが、高尚かつ文明的競技であるクリケットにおいては『テンアウトでやっと攻守交替』である。


(注2)

 こちらも野球などと (*中略)な競技とはちがい、飛んで行ったボールがピッチに戻って来るまでの間、バッツマンは何度でもウィケット間を往復してよいことになっているのである。

 え?“ウィケット”がなにか知らない?それぐらいはググって下さいよ。


(注3)

 こちらも (*中略)なので、一往復で二点だから、ここでは四往復したのであろう。


(注4)

 クリケットの歴史は古く、少なくとも16世紀初頭のイングランド・テューダー朝の時代にまで遡ることが出来るし、それどころか、長脛王エドワード一世の息子であるエドワードが1301年のケントでクリケットの一種とおぼしき競技を行ったという記録も残さ (*中略)

 なので、19世紀のアメリカでクリケットやタウンボールの偽物・まがい物として始められた野球のほうが“クリケットもどき”って呼ばれるべきなんじゃないかと! 僕なんかは想うんですけど!! その辺の歴史も知らずに野球ファンって人種は (*後略)

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