第二話:妊婦と妻と元恋人(その13)
「ス?」と、境内のどこかで誰かが言った。「スってなんだっけ?」
すると、
「ほら、大根とかゴボウとか、時々スキマ?が入ってることあるでしょ?」と、また別の誰かが言った。
「その“ス”がどうかしたの?」
「うん。わたしも友だちから聞いた話なんだけどね――あそこの喫茶店、ちょこちょこ絵が飾ってあるじゃない?」
「ああ、オーナーさんが元絵描きとか――」
「元?……かどうかは知らないけど、あそこのオーナーの絵なんだって」
「ふーん。私けっこう好きだよ、あそこの絵」
「そう?わたしもけっこう好きなんだけどさ、そこに一枚の大根の絵があるらしいんだけどね」
「……そんなのあったかしら?」
「あー、ひょっとするといまはもうないのかな?売れちゃったとか?」
「うーん?売れるような絵には見えないけどね――好きだけど」
「ね、好きだけど」
「で?なに?その大根にスが入ってたってこと?」
「そうそう。――っていうか、普通はわからないじゃない?切ってみないと」
「ああ、切った大根じゃなかったんだ」
「そう。――なんだけど、ある時あそこの常連のひとりが奥さんを連れて来たことがあったんだって」
「うんうん」
「で、その奥さんは、あの喫茶店に来るのは初めてだったんだけど、たまたま座った席の壁にその大根の絵がかかっていたらしいのね。そしたら――」
*
「どうかしたのか?」って、おじさん。「さっきからその絵ばっかり見つめて」
すると奥さんは、「あ、いえ、なんでもないんですよ」って返したのね。
でも――、
「気に入ったのか?」って、おじさんが続けて、
「あ、ええ、いい絵だと想います」って、奥さんも返す。
「そうか。ここの主人は絵描きでね、ちょこちょこお気に入りを飾っているんだ」
「はあ……」
「……うん?どうした?なにかやっぱり変だぞ?」
「それが――ちょっと気になるんですよね」
「質問があるんなら訊いてやろうか?」
「あ、いえ、そんな、訊くほどのことでもないんですよ」
「いいんだ、いいんだ。ここの主人とは顔見知りなんだから――おおい、美里さん」
「はい?」と、ここでオーナーの登場ね。「どうかされましたか?」
「実はうちの家内が、ぜひ訊きたいことがあるそうなんだが――」と、おじさん。
「はい?なんでしょうか?」
すると、ちょっと恐縮した感じで奥さんが、
「あの……こんなこと訊くのは大変失礼かとは想うのですが……」って言うの。
「……は?」
「このお大根ね」と、大根の絵を指しながら奥さん。
「大根?」と、つられて絵のほうを見るオーナー。
で、そこで奥さんが、
「ひょっとして…………スが入っていませんでした?」
って訊いたら、オーナーも驚いちゃって、
「なんで分かったんですか?!」
「いえ、あの、色とか形とか?…………美味しくなかったでしょう?」
「そうなんですよ。おでんに入れてみたんですけど、まったく味がしみなくて……」
*
「で、そこから二人はお料理談議に入っちゃったんだけど、それを横で聞いてたおじさんが急に怒りだしたんだって」
「……なんで?」
「“君たちはいったい芸術というものをどのように考えているのだね?”」
「ああ……」
「そしたらオーナーも困っちゃって、“でもね、○○さん。わたし、このとき――」
*
「あれ?真琴さん?」
と、ここで不意に自分を呼ぶ声がして、山岸真琴 (28)は話のオチを聞きそびれてしまった。
声のした方向にフッと目をやると、買い物袋を手にした樫山詢子 (27)がひとりで立っている。
「病院じゃなかったんですか?」
彼女の白いカサと鳥居わきの淡いアジサイが、まるで姉妹か母娘のように見える。
これ以上濃くはならないのだろうか?
そんなことを想いながら真琴は、彼女の左目のあたりに意識の焦点を合わせると、
「午前中で終わったんです」と、ほほ笑んでみせた。「あと、病院じゃなくて助産院でした」
「助産院?」
「この辺じゃ有名な方らしいんですけど、百合子さんのご親戚の紹介だそうで――」
「百合子さん?」
「あー、その、あきらの――あ、あきらってのが、ぼくの別れた元恋人なんですけど、その――」
「いまの恋人?」
「そうそう。……と言うか、“恋人”はもう止めてくれって言われましたけど」
「……止める?」
「“恋人気分はもうおしまい”だとかなんとか――本気なんですって。彼女のことも、子どものことも」
(続く)




