第二話:妊婦と妻と元恋人(その6)
さて。
そんなこんなな千駄ヶ谷の面々から南東へ離れることおよそ50km。時間にしておよそ5時間ほど前。あるひとりの女性がまっ白な灯台の下に座って海をながめていた。
この日の海は梅雨時にしてはめずらしいほどに晴れあがり、太洋の向こうからはゆっくりとした大きな波が砂浜へと打ち寄せていたのだが、そんな穏やかな風景とは裏腹に彼女は、ひとり説明しがたい怒りと悲しみをその胸に感じていた。
この怒りや悲しみについて考えるとき彼女は、出来るかぎり細かく割って、ひとつずつ整理して、自分の手に負えることと手に負えないことをキッチリしっかり仕分けしたうえで、そのひとつひとつを、地道にコツコツ考えることにしていた。
それは、その怒りや悲しみのすべてをまとめて考えるには、その怒りや悲しみは大きすぎるし複雑すぎるメンドクサ過ぎる……と、彼女には見えていたからだし、いつか読んだアンガーなんとかの本だかネット記事だかにもそんなことが書かれてあったからなのだが、ただまあそれでも、細かく割って整理してキッチリしっかり仕分けしたところで問題の総量が変わるワケでもないうえに、結局自分の手に負えないことは手に負えないことのままなワケで、というかそもそも、そんな繊細な作業がこの女性の性格に合っていようハズもなかった。
――なので彼女は、
「ああ! もうメンドクサイ!!」
と、ひと声叫ぶと、
バッと立ち上がり、
ダダダダダッと石段を駆け降りて行くと、
シュビシュビシュバァッとご近所へのあいさつも適当に通りを疾走し、
ガラガラガラガラッと彼女の夫が経営する旅館の扉を開くと、
「あ、女将さん。どうかされましたか?」
と言う番頭 (岸部四郎似)への返事もそこそこに、東京行きの電車の時間と経路と財布の中身を確認し始めた。
彼女の名前は安堂茄子 (34)。旧姓・山岸。「山岸さん家の三姉妹」第一の刺客 (刺客?)である。
*
ゾクッ。
と、山岸真琴 (28)が、はた目にも分かるほどにその細い身体を震わせた。
すると、そんな彼のようすにビックリしたのか、冷蔵庫を物色していた三尾漱吾 (31)が、
「どうした?」と訊いて来た。「風邪かなんかか?」
ここは引きつづき樫山泰仁 (31)の自宅兼仕事場兼生家兼オンボロ屋敷…………の1階キッチンである。
「あ、いや、別にそういうワケじゃないんですけど」と、真琴。「なんかこう……、身の危険?がせまっているような?そんな変な感じがしたもんで――」
「あー、まあ、今日も今日とていろいろあったからな――」と、冷蔵庫の扉隅にあったチョコレートを取り出しながら漱吾――が言ったところで、
「おーい、どこ行ったーー?」と、ふたりを呼ぶ樫山の声が聞こえて来た。「めし食ってくんだったら、買い出し行って来てくんないか?」
*
「あ、この“梅ジャムクッキー”美味しい」と、佐倉伊純 (29)が言い、
「ほんと、あー、そう言えば今年はまだ梅シロップ買ってないわね」と、樫山詢子 (27)が続けた。
「あ、まだ置いてなかったですね」と、こちらは森永久美子 (24)。「こんど行ったら美里さんに訊いてみますね」
「漱吾に聞いた方が早かったりして」と、続けて伊純。「こと食べものに関しちゃ、目端が利くんだから――」
――ま、食べものだけじゃないですけどね。
*
「あ、ほら、マコト、あそこにもあるぞ」と、漱吾が言い、
「え?どこですか?」と、真琴は応えた。
「ほら、あの公園のところ」
「あー、あの白いのですか?」
「そうそう」
「よく見えますね?」
「俺、両目とも2.0」
「ぼくにはボヤ―ッと白いのがあるぐらいにしか見えないです」
「目ぇわるいのか?」
「漱吾さんが良すぎるんですよ」
そう言うと真琴は、目を細めたままの格好で、梅雨の晴れ間に咲くノリノキアジサイの大きな緑の葉と、そこにのる小さな白い花たちを、しばらくの間見つめていた。
“雑種の犬を飼って 散歩に出かけよう”
と、いつかうたった歌の一節が想い出された。
“あのひと”に向けるつもりでうたったのだっただろうか?
この続きは、どんな歌詞だっただろうか?
「どした?」と、漱吾が訊き、
「あ、いえ」と、そんな過去の記憶から救い出されながら真琴は応えた。「漱吾さんの言ってたとおりだなと想って」
“思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。”
「だろ?ウンザリするけど良いところだぜ、この街も」
そんな漱吾のことばに真琴は、「豚肉も格安でしたしね」と言って少し笑った。「荻窪にもああいうスーパーがあれば良かったのに」
“僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。”
「ま、ジャイアンツファンの俺としちゃあ、名前が気になるがな――ときどき流れんだよ」
「流れる?」
「“六甲おろしに、さっそうと~~”」
「マジですか?!」
“思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。”
「攻めてんだろ?ここ東京だぜ?」
「関西出身のかたなんですか?」
「オーナー?いや、生まれも育ちも練馬区桜台」
「それはスゴイですね……」
“記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。”
「まあ、東京に生まれて阪神を愛しててもそれはそれでいいんだけどさ」
「豚肉も格安ですしね」
と、ここまで言って真琴は、不意に立ち止まり、その口を閉じた。
“多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。”
「どした?」と、漱吾が訊き、
「あ、いえ」と、“あのひと”との想い出をそっとやさしくなでながら真琴は応えた。「やっぱり、漱吾さんの言うとおりだなと想って」
“上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが……”
「だろ?」
「ええ」――ウンザリするけど良いところですよね。
やはり自分も、彼女の病院に付き合うことにしよう。
(続く)
*参考文献
小林秀雄『無常という事』




