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第一話:BL作家と六月の花嫁(その1)

 つい先週までは春らしい気持ちのいい日が続いていたのに、今週に入った途端に湿度の高い日が増えたように想う。梅雨入りはもう少し先のハズだが、そろそろ雨靴や上着の心配をし始めたほうが良いのかも知れない。


 なんてことを考えていたら窓から見える空の様子があやしくなって来た。こんな日にはグリコかイスミでも呼び出して大いにしゃべり倒したいところだけれど、グリコは修羅場まっただ中の猪熊先生のところだし、イスミはイスミで相も変わらずメールにも電話にもチャットにも出ない。


 ピロン。


 と、台所に置き忘れていたスマートフォンが鳴った。


 兄からのメールだった。


 ここかシグナレスで会えないかとのことだったが、いまこの部屋で誰かと会う気にはなれない。


『じゃあ、シグナレスで』


 とだけ書いて返信した。時間を書き忘れたと想った瞬間、ふたたび、


 ピロン。


 と、スマートフォンが鳴り、時間は兄が指定してくれた。


 火の元と戸締まりを確認して、あの人が残していったほうのカギもカバンに入れて、扉に手をかけたら、なんだかいつもより静かな感じがした。


 そういえば、むかいのご家族も先週の頭ごろ引っ越して行ったのだった。いつもより静かなのは、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえて来ないからだろう。


 ぴいぃっ。


 東の空で鳥の鳴く声が聞こえた。“良い兆し”であれば良いのに。


 そんなことを想った。


     *


 ということで、樫山詢子 (27)は悩んでいた。


 というのも、結婚三年目、同棲期間を含めれば六年間をともに暮らした夫が、突然家を出て行ってしまったからである。


 だが、まあもちろん。詢子もちゃんとした大人なので、突然相手に飛びかかったり、刃物を持ち出して来たり、土砂降りの痛みのなかをカサもささずに走って追いすがったりしたりはせずに――そもそも雨も痛みも降っていなかったし――まずは相手の言い分を聴くことにした。


「君に不満があるわけじゃないんだ」


 と、ちょっとジョニー・ウィアーを想わせるつぶらな瞳で元夫――あ、まだ離婚はしていないから“夫”か――は言った。


「でも、これ以上、自分にウソを吐くことも出来ないんだ」


『ああ、なるほど。他に女が出来たのね』と、詢子は想ったが、その勢いのままテーブルに置かれた彼の右手を手元のマグカップで叩き潰してしまうようなことはせずに、


「“自分にウソ”ってどういうこと?」


 と、目に涙がたまってくれれば良いのに、と想いながら聴いた。


「実は、他に好きなひとが出来たんだ」


「好きなひと?」ほら、やっぱり。「……私も知ってるひと?」


「君も……うん。君も知っているひと」


「私も知ってるひと?」


 と云うことは、奥田なんとかとか中嶋かんとかとかあの辺の仕事関係かしら?


「誰か……教えて貰っても良い?」


「あ……うん」


 と、ここで夫は言葉を切ると、何とかって役者がフレディ・マーキュリーを演じた時に見せたあのはにかんだ笑顔とそっくりな笑顔を見せてから、


「……中村だよ」と、言った。


     *


「本当に気付かなかったの?」


 と、テーブルの上に置かれたレンガのようなチョコレートケーキを三つに切り分けながら佐倉伊純 (29)は言った。


 こちらからの連絡には電話だろうとメールだろうとチャットだろうと電報だろうとウンともスンとも返事を返さないくせに気が付くと目の前に現れては会話を始めているこの年上の友人に対して詢子は、


「それがまったく……」


 と、彼女が分けてくれたチョコレートケーキを自分の皿に受け取りながら応えた。


 ここは詢子の住むマンションと彼女の兄・泰仁が住む一軒家のちょうど中間地点に位置する喫茶店『シグナレス』である。


 であるが、彼女をここに呼び出した当の本人はまだ到着しておらず、代わりになぜか、いつも彼女ら兄妹がすわる席に映画館帰りの伊純がちょこんと座っており……現在のやり取りへとつながったワケである。


「それは……ショックよね」


 と伊純は言ったのだが、この“ショック”には二つの意味が込められていて、もちろんそのことは詢子にも十分過ぎるほど十分に分かっていた。


 なので彼女は、


「六年だもんね――」


 と、一応年相応の女性らしい口調で、彼と過ごした年月を想い返すフリをしつつ、それっぽい返事をこころみはしたものの、すぐに、


「でも、それは別に良いのよ」


 と、改めて彼女らしいいっぽん芯のとおった口ぶりに戻って言った。


「それよりもショックなのは、気付けなかったってこと」


「本当……そっちの方がショックよね?」


 と、チョコレートケーキの一番硬い部分をフォークで刺しながら伊純。


「アンタともあろうお人が」


 ――なーんで気付けないかなあ?


「だって私との……ほら…………確かに淡白な感じはしたけど……そーゆー人なのかな?……ぐらいに想ってたし……」


 ――そうそう気付けるもんじゃないんじゃない?


「淡白だったんだ」


「まあ、べつに私もそーゆーのが好きなワケじゃないし……それに、私のことは普通に好きなんだろうな?……っては想っていたし」


「ま、はたから見てる分にはアンタたちラブラブな感じだったけどさあ、旦那さんも草食系?に見えたし……」


 と、ここで伊純は、フォークを刺す手を止めると、詢子の肩ごしに見えたウェイターのお尻のラインに一瞬目を奪われてから、


「あれ?」


 と言った。


「えーっと、ごめん。アタシ、いままでの話を全部、旦那さんを“右”って設定で聞いてたんだけど……」


 この言葉に詢子は、両手の指先で左右のまぶたをそれぞれ押さえると、


「だから、それが一番ショックでさあ……」


 と、涙ぐらい流れてくれてもいいんじゃない?と想いながら応えた。


     *


 ということで、樫山詢子 (27)は悩んでいた。


 というのも、結婚三年目、同棲期間を含めれば六年間をともに暮らした夫が、突然家を出て行ってしまったから――だけではなく、


 その夫が、家を出て行ってしまうぐらいにホレた相手が実は男だったから――だけではなく、


 その六年連れ添った夫がゲイであることをBLマンガ家として絶賛売り出し中の自分が気付けなかったから――だけではなく、


 その本物のゲイであるところの元夫――っていうか離婚前だからまだ“夫”なんだろうけどって、ああメンドクサイ――から、自身のマンガに出て来る少年や青年や中年や老年やメガネやリーマンなんかについて、


「でもさ、ずっと言いたかったんだけどさ、詢ちゃんの描くゲイの人たちって…………やっぱりウソんこのゲイなんだよね――」


 と、言われてしまったからなのであった。



(続く)

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