第十一話:おとぎ話と夢物語(その9)
それから10分ほどがしてリーダーは戻って来た。
が、ツボイ・トウコ嬢はいまだレフトスタンドにすわったままであった。
「いいんですか?」
そう訊いたのは、バッターボックスに立つわたしではなくキャッチャー役のカトウ・シンであった。
が、そんな彼にリーダーは、
「レガースがゆるんでるぞ」
とだけ言って返した。
それからひと呼吸を置いて試合再開の合図がなされ、その第一球目は、わたしの苦手な外角低めストレートであった。
はたしてカトウ・シンがどこまで考えてこの指示を出したのかまでは分からないが、トウコ嬢のことで気を取られていたわたしはこれに手を出し、レフトスタンドはもちろんセンター方向ですらない、平凡なライトフライを上げてしまうのであった。
*
「なあ――」
――なんですか?
「あれ、泣いとんのんちゃう?」
――かも知れませんね。
「“かも知れん”て、あんたそんな冷たい」
――でも、こればっかりはどうにもなりませんから。
「それはそうかも知れんけど……」
――あ、ヘンな気とか起こさないでくださいよ?過去は変えちゃいけないんですから。
「ああ、もう、そりゃ分かっとうけどさ――」
*
わたしのライトフライのあとも我ら白組 (なかのZEROホワイト)は、4番がウソのような内野ゴロを、5番が冗談のような見送り三振を演じてしまい、結局その回はゼロ点で終わることになった。
それから攻守入れ替ってサードに向おうとしたわたしは、いっそこのままトウコ嬢のところにまで行ってみようかとも考えたのだが、レフトに入って行く他のメンバーと目が合ってしまい、結局、つぎの攻撃を待つことにしたのだった。
*
「あのさ――」
――こんどはなんですか?
「あんたが見たい言うたさかい、こうやってお嬢ちゃんのほう見とるけどさ、もういっぽうの、あのアホは今どこでなにしとんの?」
――それはこっちを見終わってから確認しに行きますけど、彼のことですし毎日のルーティンどおり動いてるところじゃないですかね?
「ルーティン?」
――いまの時間帯ならまだ午後の仕事の真っ最中だと想いますよ。
「――はあ」
――若しくは編集からの電話にすっかり落ち込んでるところとか。
「あのアホ、相も変わらず使えへんなあ。こんな時ぐらいピューッと来て、パーッとなぐさめの言葉のひとつぐらいかけたったらエエねや」
――でも、まだ出会う前ですし。
「――ああ、まあ、そうか」
――あとですね。
「うん?」
――仮に知り合った後だったとしても、そんな都合よく現れたりしませんよ、ふつうは。おとぎ話の主人公じゃないんですから。
*
そうしてそれから、紅組の攻撃も平凡な外野フライひとつと、どうでもいいような内野ゴロふたつで終わった。
守備を終えたわたしは、その足でレフトスタンドの前まで歩いて行くと、フェンス越しの彼女に声を掛けた。
わたしは先ず、先ほどの自分のライトフライを自嘲気味に弁解すると、なんだか今日は調子が悪いのだと言った。
すると彼女は、すこしほほ笑もうとしてくれたのだが、そのほほ笑みを消すかのように口をつぐむと、いっしゅんの間を置いてから、「きゅうにさむくなったしね」と申しわけなさそうに言った。
次にわたしは、今日もライトを守ってくれないか?と訊いた。打順のほうはさっき5番が三振したばかりなのでしばらくかかるだろうが、それでもあなたがいてくれるとこころづよいとも。
すると彼女は、こんどは確かにほほ笑んでくれたのだが、それでも「ごめんね」と、ちいさな声で答えた。「きょうはちょっと、無理そうなんだ」
「かぜでも引いたのですか?」そうわたしが訊くと、ちょっとの間のあと彼女は、ちいさくかぶりを振った。
「緑葉が心配だと言っていた」と、わたしはちいさなウソを吐いた。「ほかのメンバーも気にしているようだ」――ふたたび、彼女がかぶりを振った。
わたしは、リーダーとケンカでもしたのか?と訊いた。もしそうなら、わたしが間にはいってもよい、と。
わたしの母と叔母も仲が悪いが、荻窪の叔父がなんだかんだと仲を取りなそうとしている。
なかなおりの仕方ならその叔父から聞いてよく知っている。
そんな時はいっしょに美味しいものを食べるのがよいのだ。
そうすればきっと以前のように――、
「ごめん。大樹くん」と、つよい口調で彼女が言った。「お願いだから、ほっておいてちょうだい」
それから30秒ほど、わたしは彼女のあたまのあたりを見るともなしに眺めていたのだが、イノウエ・ケンの打ったボールがファウルラインの外を転がっていく音で我に返った。
気が変わったら5番を打ってほしい。と、彼女に伝えた。――彼女はこんどは、かぶりすら振らなかった。
(続く)




