第十話:兄と妹と姉と弟(その14)
【土曜日。19時33分】
*
「“我想吃上海蟹~♪
我想一起吃飯~♪
我要永遠跟你在一起~♪」
*
さて。
まえにも書いたことがあるかも知れないが、ひとはだれしも、生涯に一度か二度、すばらしいチャンスに出くわすことがあるし、そのどうしても逃したくないチャンスを逃してしまったら、あとは妙に気楽に生きていけるようになるらしい。
そう。
樫山泰仁 (31)は、過去に一度、そのすばらしいチャンスってヤツをつかみ損なった。
いや。
もう少し正確に書くと彼は、“いちどつかんだチャンスを、自ら手放した”。
だから。
そのことを想うと彼は、以前は身震いがするほどに自分を責め苛んだものだけれども、最近ではそれもあんまり気にしなくなっていた。
多分。
彼のなかにある“そーゆー部分”が死んでしまったか、仮死状態にはいってしまったのだろう。
*
「ごめんなあ、先生」と、“あの人”の声が聞こえたような気がした。
*
が、しかし、それでも。
死んだ人間が生きかえってしまうことがあるように、仮死状態の魚が息を吹き返すことがあるように、いちどみずから殺した彼の“そーゆー部分”が、ふとしたキッカケでふたたび棺のとびらをたたくことだって多分にあるだろう。
そう。
このよる彼は、この三年間ずっと殺したままにして来たことを、自分にも仲間にもごまかして来たことを、赤の他人に図星を指されてしまったのである。
*
「“我不想離開~♪
請好好吃飯~♪
我想一起吃飯~♪”」
*
つとめて笑顔になるよう気をつけながら泰仁は、その短身短躯の調査員に顔を向けた。
「僕は……」
と言いかけて口ごもった。
ジャケットが、ジャケットに入れているスマートフォンが、小さく震えた。
ひょっとして、と一瞬想って、すぐに小さくかぶりを振った。
「どうかなさいましたか?」
と、問題の調査員ではなく、そのとなりの大樹富士子 (42)が訊ねて来た。
「あ、いえ――」と、彼女のほうに顔を向け直しながら泰仁は応えた。「ちょっと、正直、すこし、びっくりしてしまって」
ジャケットのなかの小さな振動は無視することにした。
こういう“ひょっとして”には、この三年間、ずっと裏切られ続けている。
炭酸水をひと口飲んだ。――やっぱり、レモン風のかおりがいやに鼻につく。
「だってそうですよね?」
と、ワザとひとをバカにしたような口調で泰仁は続けた。
「なんだかいきなり僕が怒ってるとか不満そうだとか言い出したと想ったら、それだけでもじゅうぶん失礼なのに、その不満の原因が僕のアニメのキャラクターじゃないかですって?そんなまるで彼女が実在するかのような言いか――」
「短く刈った金髪に、碧い瞳と白い肌。背の高さは先生との比較から165cmから170cmの間ぐらい。ひょろっとした長い手足に細身のからだ。人種的には多分コーカソイドなのでしょうが、なぜか流暢な関西弁を――しかも姫路寄りの関西弁を話している」
と、突然、そのおっとりしたコグマのような風貌からは想像し難い早口で調査員は言った。
「興信所職員をあまりみくびらないで頂きたい」
「ちょっと、畑野さん」と、少々興奮気味の彼を富士子が止めにはいった。
はいったのだが、しゃべり出した口は止まろうとしてくれないのだろう、その短身短躯の興信所職員は、
「数日間――いやたった数時間この地に滞在しただけのひとであっても、探し出してみせるのが私たちの仕事でありプライドでもあるんです。それが――」
と、いらだちを隠せぬ様子で、それこそ、彼こそが不満と怒りを感じているかのような口調で続ける。
「ですから――」とふたたび、今度は明らかに彼の態度を非難するトーンでもって富士子が言った。「その辺にしておいて下さい」
「しかし富士子さん」と彼女のほうを向きながら畑野は言い、
「探偵業的興味はすこし止めておいて下さい」と富士子は返した。
すると、しかしそれでも、どうしても“探偵業的興味”が優先したのだろうか畑野は、今度は泰仁のほうへ向き直りつつ、「しかしですね――」と続けた。
「しかし、それでもですね、先生。問題の“あの人”とやらの行き先だけは、どうやっても調べられない。いえ、この地に来たことだけはたしかなんです。先生のご友人たちを始め、様々な人が“あの人”のことを見ている。なかには“たいへんよくしてもらった”なんて言うひとすらいる。でも、それだけなんです。たしかに“あの人”はいた。しかし、それを示す証拠がなにも出て来ない。どこに行ったのか?それも分からない」
と、ここでコグマのような調査員は自分のぶんの炭酸水をひと口飲むと、
「こんな屈辱は初めてだ」と、いらだたしげに言った。「“あの人”はいったい――何者なんですか?」
*
「“明輪蒸鍋的汽笛~♪
槓上開花用這個~♪
襦子包裹你的心~♪」
*
【土曜日。19時49分】
「兄さんがさ――」
と、食後のひとときを自分のひざの上でくつろいでいるフェンチャーチの背中をなでながら、樫山詢子 (27)は言った。
「兄さんがさ――、私の結婚式でスピーチしてくれたじゃない?」
ひざの上のネコが『ちょっと位置が違うよ』とばかりにその身体をすこしくねらせた。
「ああ、あれ、かなりの――ちょっとばかりヒンシュクもんだったわね」
台所から、洗いものを片付けながら佐倉伊純 (29)が返した。
「――あんたは笑ってたけど」
「兄さんなりの…………ほら、あの人お笑いのセンスないじゃない?」
視線を下に向け、こんどは首のあたりを掻いてやった。――彼女の首元のペンダントがちいさく碧く光った。
「多分、兄さん的には、私を笑わそうとしてくれたんだと想うんだよね」
「――だから笑ってあげたの?」
と、相手の声が聞き取りにくくなったのだろうか、蛇口の水を止めながら伊純が訊いた。
「ううん」視線を伊純のほうに上げる。「本当におかしかったから笑ったの」
「あんたら兄妹のお笑いセンスは私には分かんないわ」
「にゃーん。 (訳:わたしなら笑いながら床を転げまわっていたかも知れません)」
「かもね」そう言いながら詢子は伊純に向けてほほ笑みを与え、
「あ、」と、まるでいま初めて気付いたかのように伊純が応えた。「お兄さんも時々、その顔するわよね」
「にゃん。 (訳:彼はいつも、私のこころを揺り動かします)」
「……なんの話?」
「その笑顔。――ほんと、あんたらそっくりよね」
そう言われて詢子は、タキシード姿の兄が――“妙子さん”との旅をやめた兄が――花嫁すがたの私に向けてくれたほほ笑みを想い出した。
*
「“僅有小籠包是不夠的~♪
僅有與那個人的回憶~♪
是不夠的~♪”」
*
「僕は――」と言い掛けて、ふたたび口ごもった。
「気取った表現になるのは許して頂きたいのですが、」と、編集者向けによく使う言い訳と同じ言い訳を付け加えた。「――僕は、もうひとつ別の人生を失くしたんです」
そう言って言葉の陳腐さに自分で自分を笑いたくなった。
そんなことは人生の常態ではないか。
誰もが、毎日の一瞬一瞬に、その“別の人生”ってやつを失くし続けている。
目を覚まし、ベッドから起き上がり、その日最初の一歩を――左足で?右足で?――その日最初の一歩を踏み出す。それから数歩あるいて、その部屋のドアを――右手で?左手で?――その部屋のドアを開ける。
すると、その部屋のドアを開けた瞬間、無数にあるはずの別のドアたちが、音もなく閉まって行く。
そう。
だがしかし、ほとんどの場合ひとは、その無数にあるはずのドアの存在には気付かないし、気付けない。――もちろん、気付く時と場合もあるのだけれど。
「するとお兄さんは、そのドアのひとつに気付かれた――ということですか?」と、富士子が訊き、
「それは、気付くなってほうが無理ですよ――」と、窓のそとを星たちが流れて行った。
(続く)




