第十話:兄と妹と姉と弟(その13)
【土曜日。19時13分】
*
「“うつくしいまち~♪
うつくしいまち~♪
再見~♪
在普通話的屋頂上~♪”」
*
「山岸――真琴くんの方は“まんざらでもない”?」
そう言って、月と星と上海ガニのことを忘れようと、炭酸水をひと口飲んだ。レモン風のかおりがいやに鼻についた。
「それはどういう――」
と、こちらが言うのを予期していたかのように、コグマのような調査員がいちまいのコピーをテーブルのうえに置いた。
「これは、先日実家にもどった際、たまたま見付けたあの子の日記――高校時代の日記――なんですがね」
そう大樹富士子 (42)は言うと、その長くほそい指で――たぶん彼女自身が定規かなにかで引いたのだろう――キレイに整えられた複数の赤い下線を差した。
「これで気付いたんです。弟は――少なくとも、この頃の弟は――詢子さんにたいへんな好意を持っていたのだと」
*
【土曜日。19時31分】
「なんでそれをはやく言わないのよ?」と佐倉伊純 (29)が言い、
「にゃふん。 (訳:あなたはいつも私のこころを傷付けます)」と、ネコ用に薄めたチキンスープを飲みながらフェンチャーチ (メス、二代目:1才9ヶ月)が続けると、
「だって、あんたに相談する前にみんな集まって来ちゃったんだもん――」と、樫山詢子 (27)は応えた。「真琴さんなんかお土産持って来るし」
「あー、まー、でも、うわーー」と、その日の午後からいままでの詢子の心情を想像しつつ伊純。「あー、え?いや、でも、ちょっと待ってよ…………それって、あんただってまんざらでもないんじゃない?」
「にゃんにゃん。 (訳:わたしなら笑いながら床を転げまわるかも知れません)」
「いや、さすがにそこまでじゃないけど――」
「え?でも、え?でも?あー、うわー、この話、真琴くんは知って――るワケないわよね、さっきの様子を見るかぎりだと」
「にゃあ? (訳:わたしなら笑いながら床を転げまわっているところですよ?)」
「だから、ネコじゃないんだから」
「は?」
「にゃん? (訳:にゃん?)」
「あ、いや、ごめん。――うん。知らない…………たぶん、知らないと想う」
「まあね、知っててアレなら、相当なワルだもんね」
「にゃふん。 (訳:彼は毎日あなたの気持ちを揺さぶります)」
「だからねー、なんかねー、あのお姉さんがただただ暴走してるだけって気もするのよねーー」
「あー、鷹子さんも苦手って言ってたもんね」
「にゃ。 (訳:お代わり)」
と、ここで唐突に、伊純の右くるぶしをつつくフェンチャーチ。
「え?なに?もう飲んだの?」
「にゃ。 (訳:お代わり)」
「はいはい。ネコのくせによく飲むわね」
そう言うと彼女は立ち上がり、台所のほうへと向かうと、
「あー、でも、私は会ってないから分かんないけどさ――」と、続けた。「どんな感じのひとなの?その――富士子さん?だっけ?」
「どんな感じって?」
「信用出来るとか出来ないとか」
「あー、なんか、兄さんと似た感じがした」
「――お兄さんと?」
「ちょっとだけだけどね――なに考えているか分かんないところがある感じ」
*
「“うつくしいまち~♪
うつくしいまち~♪
不是很遺憾嗎~♪
後巷的貓~♪”」
*
「ですからね、お兄さま」と、日記のコピーから目を上げながら富士子は続けた。
「数ヶ月前、中谷さんに逃げられたあの子が、お兄さまのところに向かわれたのは、もちろん高校の先輩であるお兄さまを頼られたのはそのとおりだとは想いますが、ひょっとしたら詢子さんに――」
が、しかし、ここまで言って彼女は、真琴の日記でも自分でもなく、自分の肩越しに見える窓の外に――そこからめずらしく見えている月や星に――意識と魂を向けている泰仁の視線と表情に気付いた。
そうして、それから彼女は、ソッ。と口をつぐむと、すこしの間を取ったあと、
「なにか?」と、ちいさく訊いた。「なにか…………ご不満でも?」
すると、この質問に対して泰仁は、
「ご不満?」と訊きかえし、富士子は、
「さきほどから――」と、一瞬だけ背後に視線をやってから、ことばを繋いだ。
「なにやら“心ここにあらず”と言った感じで、すこし怒っていらっしゃるように――なにかご不満をお持ちのように、見えたものですから」
「いいえ、まさかそんな――」
と、ここで泰仁は、月や星や上海ガニから目をそらしながら言おうとして、自分の声が“すこし怒って”“なにかご不満をお持ちのよう”であることに気付いた。
なるほど。適当にはぐらかそうとしたが、これでは説得力がない。
「あの、ひょっとして――」
とここで、富士子のとなりにすわる短身短躯の調査員が、ある種の唐突さでもって、二人の会話に入りこんで来た。
「畑野さん――」と、そんな彼を富士子はたしなめようとしたのだが、ここで止めては逆に不自然になるとでも考えたのだろうか、「なにか気になることでも?」そう途中で言葉を変え、彼に続けるよう促がした。
「あ、いえ、その――」と、畑野。こちらもまた一瞬だけ背後の星空に目をやってから続ける。
「気を悪くしないで欲しいんですがね、樫山さん。ほら、こんな仕事してるでしょ?ひとの怒りとか不満とかには敏感になりやすいもので――」
「いえ、ですから僕は別になにも――」
と、いつもは見せない人懐っこい笑顔を作りながら泰仁は言うが、それも畑野や富士子には見透かされているのだろう、
「いえいえ、ここは少しぐらい腹を割っておきましょうよ。私も皆さんを調査している中で、先生に訊きたいことがいろいろ出て来てましてねえ――」
と、樫山以上に人懐っこい笑顔を作りながら畑野。
「なんて言うかな。――そう。うちの今のカミさんがね、これが年下のくせに出来たというか練れたヤツなんですが、ある時、ある人物の調査をして煮詰まってた私にこんなことを言ってくれたんですよ。「あのね、トンさん」――あ、“トン”ってのが私の名前なんですけどね――「あのね、トンさん。あんな感じにひとが不満や怒りを抱くのは、たいていなにかを、なにか大切ななにかを失くしたときよ。その線で探ってみたら?」ってね。――分かります?言ってる意味?」
と、更に人懐っこい笑顔になりながら畑野は訊くが、泰仁からも富士子からもこれと言った反応はない。
なので仕方なく彼は、
「でね、その時は70のおばあちゃんが相手だったんですがね――」そう笑顔をもとに戻しながら続けた。
「いま、先生、そのおばあちゃんにそっくりな顔しているんですよ。静かで、ほぼ無表情なんだけど、なにかを失くした怒りと不満でいっぱいって顔になってる」
一瞬。自分の時計だけが止まった。――そんな風に感じた。
脳細胞はすでに、ありとあらゆる理屈をこねくり回したり組み立て直したりし始めている。
適当なウソを吐いたり怒り出したフリをすることも考えた。――が、それでも、この数時間前に見掛けた朱色のパーカーが頭の片すみで翻り続けている。
そう。
僕の時計だけが、止まっているのである。
「で、ですね――」
と、そんな泰仁の困惑・当惑・迷い・混迷を知ってか知らずか、短身短躯の名探偵は続けた。
「それって、先生のアニメの、あの女性と、なにか関係があるんじゃありませんか?」
(続く)




