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第十話:兄と妹と姉と弟(その11)

【土曜日。18時23分】


 そのホテルのエレベーターに乗り込もうとしたとき、樫山泰仁 (31)は、つい、いつものくせで、スマートフォンに着信が来ていないかを確認しようとした。


 そうして、扉が閉まるのとほぼ同じ速度でジャケットに手を入れようとして、同行の男性と目が合い、『いや、やめておこう』と、自分で自分を軽く叱った。


 着信なら、つい12分ほど前に確認したばかりだし、仮に着信があったとしても、どうせこれといったものもないだろう。――同行の男性が11階行きのボタンを押した。


 それに――。


 と、彼は呼吸を整えながら考えた。


 この人生から教えられた数少ない教訓のひとつにもあるではないか――、


『人生の大事な場面で、スマートフォンに気を取られてはいけない』


 上昇するエレベーターの窓から、雨上がりの夜空に、とおく上弦の月が見えた。


 みょうに熱心に月を見つめる泰仁のことを、同行の短身短躯の男性は『なみだでもこらえているのだろうか?』と想った。


     *


「ごめんなあ、先生」と、“あの人”の声が聞こえたような気がした。「ほな、また――縁があったら」


     *


 しかし、こんなときでも彼は、なみだを流したり堪えたりするタイプの人間ではない。


 そう。


 彼はただただ、月の影に、その昔“逃してしまった素晴らしいチャンス”ってやつが見えないものか?――と、目を凝らしていたのである。


     *


 それから8分後、彼は面談の相手に自分がまったくの下戸であることを詫びると、まだあどけなさの残るウェイターに向かって刺激の少ない炭酸水をオーダーした。


『たしかに、妹さんとは合わなさそうだ』と、彼は想った。『――口もとはよく似ているけれど』


 むかいの席にすわる大樹富士子 (42)の前には白ワインのグラスとカンタルチーズが置かれている。


「すみませんね、うちはどうも酒飲みの家系らしくて――」そう彼女が言って泰仁は、


「どうも、そうらしいですね」との返事の代わりに、軽い微笑でそれに応えた。


「もちろん、お兄さまもよくご存知の“アレ”はまた特別でして――」と富士子。「三女の茄子や、もちろん真琴も、飲み過ぎて失態を演じたりするような人間ではありませんので――」


「ああ、そうですよね」と、声のトーンに注意しながら泰仁。「とくに真琴くんは、お仕事柄その辺りの管理は徹底されているようで――」


 と、ここで、先ほどのウェイターが泰仁の炭酸水とピスタチオの小皿を持って戻って来た。


「ありがとうございます」


 そう言うと泰仁は、ウェイターに軽く会釈をしてから、瓶のなかの炭酸水をグラスへと移した。


 富士子のとなりにすわる短身短躯の男性も、泰仁にならったのだろうか、それとも職務中だからだろうか、富士子の飲む白ワインをうらやましそうに見詰めながら、強めの炭酸水をウェイターに頼んでいる。


「大樹さん――」と、泰仁が固い口調で切り出した直後、


 フッ。


 と、ふき出すのを堪えているような様子で富士子がわらった。


「……なにか?」


「いえ、すみません。やはりご兄妹なんだなって想って――」と、自身の妹弟たちを想い出しながら富士子。「詢子さんも同じような感じで私を呼ばれたもので」


「あいつ――詢子にも会われたんですか?」


「とっても感じのよい方ですね」と富士子。「私、好きですよ、ああいう方――かわいらしくて」


「あの――」と、泰仁は開きかけた口を途中で止めると、しばし考えをめぐらせてから「ひょっとして、詢子に関することですか?」と、富士子に訊いた。「――まだ、ご用件をお聞きしていないのですが」


 すると、この泰仁の答えに富士子は、いっしゅん、ワザとおどろいたような顔をしてから、隣にすわる短身短躯の男性、興信所調査員の畑野惇 (51)のほうに顔を向けると、


「お伝えしていないの?畑野さん?」


 と、これもワザと、少々きつめの声で言った。


 この富士子の声に畑野は、こちらは真剣に、その肩をいっしゅん震わせると、


「え?あ?あの――」と、富士子の顔を見、その表情に本気で驚きかつ納得してから、「すみません。お連れするのに忙しくて――」そう弁解になるようなならないような言葉で応えた。「……まだ、お伝えしておりません」


 アハッ。


 と、この畑野の返答にピタリと合わせるように富士子が笑い出した。


 いっしゅん、周囲の目が、窓際の彼らに集中したが、それに気付くと同時に富士子は大きな右の手のひらでその笑いを抑え、と同時に、集まりかけた彼らへの関心も、これまた一瞬で雲散霧消させてしまった。


「ご、ごめんなさい。おおきな声を出してしまって――」と、トーンを落とし笑声まじりに富士子は続ける。「私ったら、てっきり、畑野さんがお話しているものだとばっかり――ああ、もう、はずかしいわ」


 そう言いながら口もとを押さえたり頬を手ではさんだりする彼女のようすは、なるほど、彼女の弟や妹たちをも想い出させるものであり、そのため泰仁側の緊張も、いく分かは和らいだようであった。


「あの、それで大樹さん。結局お話というのは――」と、先ほどまでの固い口調をすこしやわらかいものへと変えた泰仁が訊き、


「あら、他人行儀ですわね。“富士子”とお呼び下さい」


「いえしかし、初対面のかたに――」


「いえいえ、そんな気になさらないでください」と、白ワインをひと口ふくみながら富士子。「これからは家族ぐるみでのお付き合いになるかも知れないワケですし――」


「――は?」


「あ、すみません。これもまた唐突でしたわね」


「すみません。ひょっとして話と言うのは――」


「ええええ、ですから、その――本来ならば、先ずは詢子さんのお父さまにお話を通すのが筋なのでしょうが、なにやらいまはエジプト?のほうに長期で行ってらっしゃるとかで――」


 と、となりにすわる調査員の方をいっしゅん確かめる富士子。その後、彼が無言で小さくうなづくのを確認すると、真琴や鷹子と同じようなほほ笑みをその顔に浮かべながら、


「そこで、お兄さまの泰仁さんに、詢子さんとうちの真琴のご縁談について、ご相談させて頂きたい――と、こういう次第なんです」


 と、続けた。


     *


【土曜日。19時13分】


 コンコン。


 と、扉をノックする音がして、樫山詢子 (27)は、天井に向けていた右の手のひらを――重力の流れにしたがって――ベッドのほうへとゆっくり落とすと、その反動らしきものを利用しながら、こちらもゆっくりと、その身体をベッドから引きはがしに掛かった。


 このときの、起き上がったいきおいで上にかけていたアフガンが床に落ちてしまったのだが、なんだかちょっとおっくうな感じがしたのだろう彼女は、それを拾い上げるようなことはせず、ただただ、


「――なに?」と、扉のむこうにいるであろうノックの主に向かって応えた。


 すると、その扉の向こう側から、


「あー、あのさーー」と言う佐倉伊純 (29)の声が聞こえた。「私もお腹すいちゃったんでさ――」


 なに?なんか遠慮してる?


「冷凍庫にあった手羽先借りてスープ作ったんだけどさ――」――スープなら、つかれてても飲めるでしょ?「よかったら、食事にしない?」


 すると、伊純のこの言葉に――と言うか、扉の向こう側からただよって来るスープの匂いに――まず反応を示したのは、床に落としたままになっていたアフガンのふくらみであった。



(続く)

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