第十話:兄と妹と姉と弟(その10)
【土曜日。17時41分】
ガタン。
ガタガタン。
ガタンガタン。
ガタガタガタン。
フッと顔をあげると、電車のなかが異様なほど空いていた。
ふだんなら、乗るのもはばかられるぐらいの車内なのだが――。
窓のそとを見る。
いまはどこだろうか?
さっき乗り換えたばかりのはずだが?
まさか一周まわったりはしていないよな?
日はすっかりと落ちている。
なんだか時間の進みかたが奇妙だ。
うっとうしいほどの街の明かりが目に飛び込んで来る。
いっとき降った大雨もいまではすっかりと上がっている。
漱吾か伊純くんか――ああ、“あの人”も相当な晴れ女だったな。
“あの人”と見た星の海に似ている――みたいなことを考えて、自分の表現力の陳腐さに頭を殴りたくなった。
ひょっとして――と、想った。
今日、どこかですれ違っていたのかも?――と。
*
【土曜日。15時11分】
「そうよ、“あの人”だわ」
と、時間を遡ること2時間と30分ほど前。『月乃兎珈琲・石神井公園店』では、鷹子・カスティリオーヌ (38)が、まるで“目のまえのフィルターをとつぜん外された”かのようにそうつぶやいていた。
「そうよ、そっくりじゃない」
今日はじめて会った女の子・宇尾緑葉 (11)の警護のひとりが“お兄さん”のファンであったことにも、大変たいそう大いに、天地がひっくり返ってもおかしくないくらいには驚いたのだが (注1)――、
それよりも何故、いままで気付けなかったのだろう?
何故、いまになって想い出してしまったのだろうか?
「お姉さま?」と、となりの席の緑葉が心配そうに訊いた。「どうかされましたか?」
彼女の顔を見る。――いや、この子は関係がない。
彼女の前にすわるボディーガードの女性を見る。――そうか、彼女だ。
「あの、あなた」と、鷹子は言い、
「あ、はい」と、ボディーガードの女性・安治来歩菜 (29)は応えた。「――すみません。すぐに持ち場へ戻りますので」
「あ、ちがう。それは別にいいのよ」と、鷹子。「それよりあなた、さっき“お兄さん”のアニメも見てるって言ったじゃない?」
「どうしたんですか?鷹子さん?」と、あきらかに様子の変わった彼女に声をかける樫山泰仁 (31)。「たしかにあのアニメを見ているひとは珍しいですけど――」と、少々自嘲気味に彼は言ったのだが、
「ごめん、“お兄さん”。いまそういう話じゃないんだ」と、その言葉はすぐに鷹子に遮られ、彼女は、
「――あなたも見たわよね?」そうふたたびボディーガードのほうに顔を向きながら続けた。
「見た?――というのは?」
「さっきのパーティー」――そうよ、あれだけ“お兄さん”から聞かされていたじゃない。
「パーティー?」
「あのピエロ!」――そうよ、見た目も話し方もソックリだったじゃない。
「――ピエロ?」
なんで、すぐに気が付かなかったのかしら?
「あのアニメの“あの人”にそっくりじゃなかった?」――なんだかまだ、頭の片すみに小さなモヤが掛かってるような気がする。
*
【土曜日。17時47分】
ガタン。
ガタガタン。
ガタンガタン。
ガタガタガタン。
フッと顔をもどすと、電車のなかからひとかげが消えていた。
ああ、新宿に着いたんだな。
と、ホームに下りるちいさな女の子のうしろ姿を眺めながら泰仁は想った。
僕も、乗り換えなきゃ。
と、腰を上げようとして、なんだか突然なにもかもがおっくうな気がした。
ひょっとして――。
そう想いながら、胸に空いたままの小さな秘密の穴を確かめようとして、その代わりに、
ブブブッ。
と、胸ポケットのスマートフォンが小さく鳴った。
妹からのショートメッセージだった。
*
【土曜日。18時23分】
「じゃあ俺たちは帰るけど――」と、床に置いていたカバンを拾い上げながら三尾漱吾 (31)は訊いた。「ほんとに樫山に連絡入れなくてもいいか?」
すると、こう問われた佐倉伊純 (29)は、
「だいじょうぶよ、私ももう少し付いてるし――」と、彼といっしょに玄関へと向かいながら答えた。「当人もお兄さんに伝えるほどじゃないって言ってるしね」
「でも、ほんとびっくりしましたよ――」と、こちらは玄関先で漱吾を待っていた山岸真琴 (28)が、「あんなに顔をまっ赤にして――」そう誰に言うでもなくつぶやく。「熱はないようでしたけど――」
この彼のつぶやきに、同じく玄関先にいた森永久美子 (25)は、いっしゅん『?』という顔をしたのだが、その銀灰色だか金褐色だかの脳細胞を当社比1.21倍の速度でフル回転させると、そのちょうど0.7秒後、『?!!』という顔になって、その三白眼を真琴のほうへと向けた。すると、
「どうかしましたか?」と、彼女の視線に気付いた真琴が振り返り、
「あーー」と、つい今しがた出た“適切な観察に基づく論理的な推論”を彼女が口にしようとしたところで、
「そう言えばおまえ、石神井の先生は?」と、やっと玄関にたどり着いた漱吾が訊いて来たので、この“適切な観察に基づく論理的な推論”は、結局、彼女の中に飲み込まれることになった。
「ああ、それが――」と、漱吾と伊純のほうに向きを変えながらグリコ。「“なんだか時空の波動を感じるわ”って先生が言い出しちゃって――」
「――は?」と、いっせいに訊き返す漱吾ら三名。
「いえ、私も“は?!”ってはなりましたけど――時々あるんですよ」
「――はあ」
「で、その“時空の波動”ってやつを感じると、先生神懸っちゃって――」
「はあ」
「で、もんのスッゴイ勢いでペン入れも背景もトーン貼りも消しゴム掛けも全部ひとりでやり始めちゃうんですね――私たち要らないぐらいに」
*
「最高に
『ハイ!』って
やつだアアアアア
アハハハハハハハ
ハハハーッ」
グリグリグリグリ、
グリグリグリィーー!!!
*
――な、なに?!いまの?!!
「で、いまはおひとりで、新作短編のネーム (注2)を書かれているそうです」
――これは、ひとりにしておいて大丈夫なヤツなの?
「まあ、いざとなれば旦那さまもいらっしゃいますし――」
――自宅と仕事場、別の場所じゃなかったっけ?
「“心配なので見に来た”って旦那さまがいらっしゃってました」
――あ、やっぱひとりにしておかないほうがいいヤツなんだ。
*
「まあ、マンガ描いたり小説書いたり絵を描いたりするような人たちって、我々一般的な常識人からすると想像も付かないほどに奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入な人たちだって言うから、そんな日もあるのかも知れないけど――」
と、三尾漱吾。――うるさいなあ、猪熊先生は特に特別なんだよ。
「あれ?そう言えば、うちの“先生”も石神井に行ったんだっけ?」
――あ、この野郎、無視しやがった。
「そうなんですよ。先輩もヘンなメール受け取ったみたいで――」
――ねーねー、誰か構ってよーー。
「ただ、あっちでやることもないハズですし――もうとっくに、お家に戻ってるんじゃないですかね?」
*
【土曜日。19時01分】
「ですから、その、本来ならば、先ずは詢子さんのお父さまにお話を通すのが筋なのでしょうが、なにやらいまはエジプト?のほうに長期で行ってらっしゃるとかで――」
と、こう語るのは、その機略縦横にして堅忍不抜の魂をみごとに隠したほほ笑みの大樹富士子 (42)である。
「そこで、お兄さまの泰仁さんに、詢子さんとうちの真琴のご縁談について、ご相談させて頂きたい――と、こういう次第なんです」
(続く)
(注1)
ベストセラー作家の彼女の目から見るとやっぱり、泰仁くんの小説は「これは売れない、売りにくいわよね……」という代物なのだそうである。――個人的には好きなんだけどね。
(注2)
ちなみに。この時の短編用のネームは“書きたくなったから書いただけ”だそうで、特にこれといった発表先があったりしたわけではない模様。――にも関わらず、32ページもの×4本分をひと晩で書いたと言うのだから…………本当に本物の化け物である。




