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第二話:妊婦と妻と元恋人(その1)

『午前……六時……四十二分……三十秒……をお報せします。

 ピッ……ピッ……ピッ……ピーー』


 この日の朝、中谷あきら (25)は、左の手首に右の手のひらをスッとおくと、うれしいようなこまったような、そんな忍び笑いをひとつ漏らした。


 それから、その忍び笑いを噛み殺そうとして、それでもやはり、べつにいまここに遠慮する相手もいないことに気付いて、こまったようなうれしいような、そんな忍び笑いを、もうひとつだけ漏らした。


『午前……六時……四十二分……四十秒……をお報せします。

 ピッ……ピッ……ピッ……ピーー』


 テーブルのうえに置いたスマートフォンから、妙にしゃっちょこばった音声がささやき歌うように聴こえて来る。


 ふっ。と窓のそとに目をやると、雨のむこうに光が差し始めているのが見えた。


 “雑種の犬を飼って 散歩に出かけよう”


 と、いつか聴いた歌の一節が想い出された。


 “あのひと”がうたっていたのだろうか?


 その続きは、想い出せなかった。


『午前……六時……四十二分……五十秒……をお報せします。

 ピッ……ピッ……ピッ……ピーー』


 あ、しまった。あきらは想った。


 途中で数をかぞえるのを止めてしまっていた。


 もういちど、数えなおしだ。


 ガラ。


 と、寝室の戸が開き、佐々木百合子 (27)があきらに声をかけて来た。


「起きてたの?」


「なんか目が覚めちゃって」と、あきら。


「せっかくの日曜なんだし、きちんと寝ないとだめよ?」


「そうなんだけど――」


 そう言うとあきらは、左の手首に置いておいた右の手のひらをソッと離すと、


『午前……六時……四十三分……』


 と、ずっと時を数えてくれていたスマートフォンの電源を静かに切った。


「やっぱり行くの?」と百合子が訊き、


「電話やメールで済ませるような話でもないしね」と、あきらは応えた。


「ついて行こうか?」


「ううん。ひとりで大丈夫」


「そう?」


「あなたがいると、マコトも冷静にはなれないだろうし」


「……ま、そうかもね」


「だから……、ひとりでやってみるわよ」


「そうね」と、台所のほうを向きながら百合子が言った。「……なにか作る?」


「軽いものでいいわ」


「だめよ、しっかり食べなきゃ」――あなたひとりの身体じゃないんだから。


     *


「だから言っただろ?想っている以上に多いんだよ」と、三尾漱吾 (31)は言った。


 彼のこの言葉に山岸真琴 (28)は、なにか別のことでも考えていたのだろうか、気のない生返事で応えた。


 が、それでも、漱吾はあくまで話を続けるつもりのようで、「都会には自然が少ない?そりゃ少ないさ」そう言うと、ぬるくなったコーヒーをひと口すすった。


「だけどさ、少ないなりにも、子どもの頃から住んでる俺たちにしてみりゃさ、それこそ、そこかしこに自然みたいなもんはあるもんさ」


 “みたいなもん”ってなんなんだろうな?と真琴は想ったが、それと同時に、たぶん口が勝手に動いたんだろうな。とも想えたので、そのことは適当に流すことにして、取り敢えずは目のまえにあるコーヒーをカチャカチャとかき混ぜることにした。


「ここのちょっと行った先に八幡って神社があってさ、そこなんかはちょっとしたもんだぜ?」


 そう言うと漱吾は、ここ『シグナレス』の名物料理――と彼が勝手に言っている――スモークサーモンのサンドイッチを目一杯ほおばると、「ウメもサクラもツツジも咲いて、いまなんかはアジサイがすげーんだから」


 へえー。


 と真琴は、すこし感心した様子で漱吾のほうに向きなおった。


 つい二週間ほど前に初めて会ったこのひとは、ガサツこのうえないうえに、なんでそんなところに?と、こちらが驚くような場所にサーモンサンドのアボカドをくっつけるようなひとなのだが、なかなかどうして細かいところに気が付くし、いま話に出たような、情緒豊かな (?)一面もある。


「なるほどですね」と、つい声に出してしまった真琴だが、相手はそれを別の意味にとらえてしまったようで――、


「そうなんだよ」と、新たな場所に新たなアボカドをくっつけながら漱吾は応えた。「だからオマエも、こっち越して来いって」


     *


「それで漱吾さんと同じマンションに?」


 と、担当作家ごとに変えているという打ち合わせノート (B5・方眼罫タイプ)を閉じながら向学館文芸部所属・坪井東子 (30)は言った。


「それは――大丈夫なんですか?」


     *


 と、ここは千駄ヶ谷にある樫山泰仁 (31)の自宅兼仕事場兼生家兼オンボロ屋敷の1階来客室であり、彼女と彼はたった今、次の読み切り短編の打ち合わせが終わったばかりであった。


 まあ、このズームもスカイプもチャットワークもあるご時世、わざわざ神保町から千駄ヶ谷のはずれのこのオンボロ屋敷まで打ち合わせに来る理由がどの程度あるかは不明だが、ただまあそれでも、坪井東子嬢的には、


「やっぱり、面と向かって、ヒザ突き合わせて、こころとこころが通い合うまで、作家さんとは、打ち合わせたいじゃないですか」


 ということらしい。


 そのわりには坪井くん、あなた西葛西の○○先生や西日暮里の△△先生とはメールとチャットで済ませてるよね?


「あ、いや、あちらの先生方は皆さん超深夜型でお時間が――」


 ふーーん。ま、いいんだけどさ。


     *


「それがちょうど、同じ階のひとが引っ越したばかりだそうで――」と、テーブルのうえのコーヒーカップを見つめながら樫山。「お代わりは?」


「あ、わたしは結構です」と坪井。カバンに戻そうとしていた打ち合わせノートを座っているソファのすみに置く。


「そう?じゃあ、」と、ここで樫山はソファから腰を上げようとしたが、途中で立つのをやめると、「やっぱり、僕も良いか――」と言ってふたたびそこに腰を下ろした。


「で、ほら、漱吾はマンションのオーナーさんにも気に入られてるし、敷金・礼金はいらないって言われてるようだし、山岸がよければすぐにでも決まるんじゃないかな?」


 すると、そんな樫山の説明に少々違和感を感じたのだろうか坪井は、「あ、そういう意味ではなくてですね」と、すこし身を乗り出しながら言った。


「“漱吾さんと同じマンションで大丈夫なんですか?”って意味だったんですけど――」


     *


「ま、真琴くんなら大丈夫なんじゃない?」


 と、買って来たばかりの野菜やお肉や調味料を冷蔵庫にしまいながら佐倉伊純 (29)は言った。


「お兄さんと同じ学校だったんなら頭は良いだろうし、あの体型を維持してるんでしょ?きっとストイックなんだと想うわ」


「だと良いんだけどね」


 と、こちらは買って来たソファカバーと実際のソファを見比べている樫山詢子 (27)である。


「――やっぱりこれ、派手すぎない?」


 そう言う彼女の手には、ケルト模様とインドカラーとスコットランド魂が話し合いもせずに混ざり合わされたソファカバーが握られているのだが――こんなのよくあったね?


「いいの、いいの」


 と、冷蔵庫の奥に置きっぱなしにされ忘れられている小分けの醤油やワサビや餃子のタレなんかをバシバシと断捨離しながら伊純。


「それよりこのなか、キレイにしていい?」


     *


 ということで。


 ここは樫山詢子 (27)の自宅兼仕事場兼“運命の愛に気付いた夫 (♂)が、その運命の相手 (♂)と手に手を取って出て行った結果、その妻 (=詢子)がひとり取り残されてしまったマンション”である。


 うん。書いてて哀しくなって来た。


 が、でも、そこはそれ、そんなマンションなもんだからこそ彼女たちは、


「もういっそのこと、パーッと模様替えとかしない?!」


 との伊純シェフの提案にしたがい、取り敢えず美味しそうな食材とこんな時じゃないと目もくれないタイプのソファカバーをゲットして来たところなのであった。


 え?いっそのこと引っ越したりしないのかって?


 あー、その辺の面倒な不動産関係の話は、もうちょっと事態が落ち着いたころ説明しますね。


 皆さん、いまはそれどころじゃなさそうなんで。


     *


 で、まあそれはさておき。


「あの、すみません――」


 と、突然、森永久美子 (24)はひとりの女性に声をかけられていた。


「このあたりに『シグナレス』という喫茶店があると聞いたんですけれど――」


 ここは、詢子たちのいるマンションから400mほど離れた千駄ヶ谷のほそい路地裏である。


 まあ、このグーグルマップもヤフーマップもストリートビュープラスもあるご時世、わざわざ見ず知らずの人間に道を訊くのも逆に面倒ではないのかとも想うのだが、なんと言うか、森永久美子 (24)はよく人に道を訊ねられるタイプの人間であった。


 多分、その“ちょっと神経質でとっつきにくくて三白眼で、だけどけっこう根はいいやつ”のように見える外見のなせる技なのだろうけれども、実際問題、現実の森永久美子 (24)も“けっこう根はいいやつ”なので、この時の彼女も、


『どこから来られたのかは知りませんけど、あそこに行こうとしてこのせまくて細い路地裏に迷い込んだということは、かなりの方向音痴か最初に道を訊いたひとの説明がよっぽど適当だったのかってことですよね?…………うーん?であれば、それを訂正しつつあの店までの道順を改めて教えても、また道に迷ったりするんでしょうね――』


 みたいなことを0.3秒ほど考え込んだ後、


『ま、先輩との約束も時間とか決めてないですし――』


 との結論に達したので、


「あー、けっこう分かりにくい道なんで、よければご案内しますよ」


 と、言うことになった。



(続く)

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