第一話:BL作家と六月の花嫁(その12)
「じゃあ、気を付けて帰れよ」と、駅の改札口で三尾漱吾が言うと、
「アンタも詢子のマンションに戻ったりしないようにね」と、佐倉伊純は釘を刺した。
「分かってるよ」と、漱吾。「ったく、樫山もうらやましい野郎だ」
「うらやましいってなによ?」
「東子ちゃんに真琴ちゃん」
「アンタこの一年で自分が付き合った女の子の数おぼえてないの?」
「でも、その何倍もフラれてんだぜ?」
「“easy come, easy go.”そんなにうらやましいんなら、お兄さんを見習いなさいよ」
「育った環境が違いすぎるよ」
「もって生まれた性格でしょ?」
「いやいや、もしアイツが男子校なんかに行かなくて、俺と同じような高校生活を過ごしていたとしたら、東子ちゃんとも真琴ちゃんとも、ひょっとしたら妙子さんとも、もっとうまく付き合えてたさ」
「なに言ってんのよ、もしもアンタが男子校に行ってたとして、どうせ、いまみたいな感じになってたでしょ?」
「……そうか?」
「そうよ、性格よ、性格」
*
「詢子さんは、憶えてないかも知れないけど――」
と、左の手のひらに残されたクッキーの欠けらを見つめながら山岸真琴は言った。
クリームの形がなんだか新月のようにも見える。
「高校のとき、何度か会ってるんですよね」
このとき、詢子の“度数控えめ3%”はすでに空になっていて、彼女はそのことを少し気にしていたのだが、この美しい話し相手の想いもかけない真剣さに、そんなことを気にした自分がちょっと恥ずかしくなってしまい、この美しいひとに対して、なにか謝罪のようなものをしようかと口を開いた瞬間、結局なにも言えそうにない自分に気付き、開けてしまった口は、そのままゆっくりと閉じられることになった。
「ひょっとしたら――」
と、閉じられた詢子の口の代わりに真琴は続ける。
「“お兄さんの変な後輩”ぐらいにしか見てなかったかもしれませんけど――」
詢子の目を見、彼女がちゃんと聞いているか・聞けているかを確認する。
まだ、こちらほどの真剣さにはなってくれていないようだ。
そう感じた真琴は、一度その小さな薄いくちびるを軽くかみしめると、のどの奥の渇きを確かめてから、また、口を開いた。
「……おぼえてませんか?」と、真琴が訊き、
「……ごめんなさい」と、詢子は応えた。
「そっか……」と、ちょっとおどけた態度に逃げ出そうとしながらも真琴は、それでも、
「だったら……でも……」と、なけなしの勇気をふり絞ると、
「あ、……、これは……半分…………半分以上?本気で言うんですけど…………」と、続けた。
「……なに?」
「今日、先輩に連絡を取ったのは――」
――ああ、窓の外にも新月が出ている。
「“ひょっとしたら詢子さんに会えるかも?”って気持ちもあったんです」
「……え?」
「それで……それで、高校のときも……先輩のお家にお伺いするときはいつも…………」
――そう。新しいことをはじめるには良い夜なのかも知れない。
「同じような気持ちが、あったんです」
「……真琴さん?」
「恋人にフラれた日にする話じゃないのかも知れないですけど――」
すこしはにかむ。
いや、そんな場合ではない。
勇気を持て、山岸真琴。
「ぼく、詢子さんのことがずっと好きだったんです」
*
「あら、キレイな子ね」と、連日の徹夜でショボショボになった目のままカトリーヌ・ド・猪熊は言った。「これが話題の花嫁さん?」
「ともだ……知人の男性が送り付けて来たんですよ」そう言うとグリコは、スマートフォンといっしょに自分の体も猪熊のほうへ寄せつつ、「“来れなくてかわいそうだ”とか言って」と続けた。
「ふーん」と猪熊。最近めっきり見えにくくなった目をスマートフォンに近付ける。
「でも、この子が好きなのは樫山先生じゃなくて……きっと詢子ちゃんね」
「え?」
「あら?わからない?」
「で、でも、女のひとですよ?」
「え?」
と、ここで猪熊は、こちらを向きおどろくグリコの三白眼にしばし考えを巡らすと、
「はあーー」
と、ベテラン漫画家として、人生の先達として、そしてなにより女として、グリコにダメだしのための深い深いため息を、ひとつ、吐いて聞かせた。
「だから、人体デッサンもキチンとしなさいって言ってるのよ?」
(続く)




