第八話:十九の春と二十九の春(その2)
坪井東子 (30)は、東京というこの一風変わった大都会が大好きだった。
そりゃあもちろん。
夏は気が狂わんばかりに暑いというか熱いし、冬の寒さは人々に血を流させるほどだし、春だってこの街の住人たちが言うほどステキじゃないし――と言うか、同じ緯度の別の土地の人々からすれば、「え?それが春なんですか?」と鼻で笑われるレベルだし。
それに秋も――と想いかけて坪井は、その秋の、『私はいったい、夏と冬のどちらに所属すべきなのだろうか?』という当の季節の困惑顔もまた同時に想い出し、更に同時に、そんな困惑したある秋のイチョウ並木の風景をも想い出していた。
「ああ、あれは秋だったんですね」
住み慣れた地元を離れてこの一風変わった大都会で――その片隅で――暮らし始めたのは大学に入ってから。
特に学びたいことがあったわけではない。
父親が掛けてくれていた学資保険の満期日と、中学~高校と仲の良かった女友達の上京と、自身の成績向上のタイミングが上手い具合に重なっただけだった。
地元の友人たち――と言っても腐れ縁のひと達ばかりだけど――と離れるのはちょっと残念だったけど、興味本位で専攻した仏文学とゼミの先輩に勧められて始めた太極拳は今も続けている。
「にゃん? (訳:風がカラスと街の人々を運んで行きます)」
「なあに?どしたの?」
「にゃんにゃん (訳:意味などはありません。そうして生活は続いて行くのです)」
「ねー、先生遅いでちゅよねーー」
そうそう。それに今の仕事だって幸運に幸運が重なって――というか、教務課でたまたま見掛けた求人に何も考えずに応募したら合格したのだから、このご時勢、幸運どころの騒ぎではないし、おかげで、その……なんと言うか……その…………大変、気になる?――そう。大変“気になる”男性とお近付きになることも出来た。
まあ、もちろん。
これから先どのようにアプローチして行けば良いのかは、まったくの無策&ノーアイディアだけれども。
「にゃ? (訳:今度は白鳥が、当たり前を変えながら運んで行きます)」
「はいはい。そでちゅねーー、会えるだけでもうれしいんでちゅもんねーー」
「にゃん? (訳:その秘めた想いはみにくいのですか?)」
「――うん。三十路が何言ってんだ?って感じなのは分かってますよ」
そう。
坪井東子 (30)は、東京というこの一風変わった大都会が好きだったし、彼女が東京を好きなのは、東京には彼女の好きなものが、彼女を好きでいてくれるものが、まだまだいっぱいあったからで、それはこれからもいっぱい出来て行く――と、彼女が確信していたからでもあった。
ウソみたいに、ウソみたいな季節は巡って行くけれども、私には仕事も趣味も仲間も気になる男性もいる。
「うにゃん? (訳:胸の中にあるものも、いつかは見えなくなってしまいますか?)」
「ねー。フェンちゃんも一緒にいてくれるしねー」
「にゃ! (訳:いつでも想い出して下さい。側にいることを)」
そう。
ひとはだれしも、生涯に一度か二度、すばらしいチャンスに出くわすことがあるし、そのどうしても逃したくないチャンスを逃してしまったら、あとには決して埋められない小さな穴を心にポッカリ開けることになる。
そう。
坪井東子 (30)は――彼女はいまだ気付いていなかったけれど――彼女は現在、その“すばらしいチャンス”ってヤツの真っ只中にいた。
いや。
どちらかと言うと“これから真っ只中に入る”と言ったほうが正解なのかも知れないし、そのことを彼女に伝えるわけにはまだいかないのだけれど――。
だから。
うん。やっぱり、そうだな、流石の作者も、流石にこればっかりは、成り行きを見守るしかないのであった。
ただ、まあ、それでも多分。
彼女のなかのある部分が――彼にはなくて彼女にはある“ある部分”が――きっと彼女を、出来ることなら彼も、良い方向へと導いてくれるのだろう。
――と、こんな作者も想ったりはする。
*
「よう、伊純ちゃん。またキレイになったね」と、三尾直克 (58)が佐倉伊純 (29)に言った。「――どうだい?漱吾のお嫁さんになってやってくれないか?」
「もう、やめてくださいよ、会うたびおんなじ冗談ばっかし」
「いやいや、半分は本気さ。このバカを操縦するには伊純ちゃんぐらいじゃないと」
「だって、このバカのバカさ加減はおじさんもよく知ってるでしょ?」
「でもよ、このバカが高校のときからだから、かれこれ十年?――俺たちが前の前の家に住んでたころからの腐れ縁だろ?――そろそろもらってやってくれよ?」
「えー、イヤですよ。このバカ、この前もどっかの書店員を口説いて付き合って別れたばっかりなんですよ?」
*
さて。
三尾漱吾の生家が焼け落ち、彼ら一家は――主に火災保険&家財保険の保険金を元手に――生活の再建を図ろうとしていたことは前にも書いた。
が、やはりそれでも問題は、バブルのせいでアホみたいに高騰していた土地である。
であるが、それでもまあ、元の土地を売っ払って千葉や埼玉辺りに一軒を構えるという手もないこともなかったりしたのだが、これまでの仕事やご近所付き合い・友だち付き合いなんてことも考えると、出来れば都内、渋谷区周辺からは離れたくない。――なので、
「どっか近所に、手頃な空地でもありゃあ良いんだがな――」
と、焼酎&バタピー臭い息で直克が漏らすのも仕方のないことだったのだが、やはり世の中そうそう上手く行くものではない…………と、言いたいところだが、そこはそれ三尾漱吾の血族である。
そう。
この時だけでなく、この後の一家放浪においても、とにかく彼らには、悪運だけは付いてまわるようなのであった。
が、話を急ぎ過ぎてもアレなので、先ずは手元の問題から進めよう。
そう。
先ずは“どっか近所の手頃な空地”である。
であるが、何故か何故だかこの時ここに、何故だかひょっこり、先述のゲームボーイを持って近所の公園で遊んでいた彼らきょうだい (兄&姉&漱吾)と、何故だかバッタリ何故だか急に、仲良くなってしまう老紳士 (三国連太郎似)が現れたのである。
しかもその老紳士 (声も三国連太郎さんにそっくり)は、
「なるほど――ちょっとお父さんに会わせて貰えるかね?」
と彼らきょうだいに言うと、
「実はかくかくしかじかありまして――」
とばかりに、彼らの父であり三尾家家長であるところの三尾直克に、ある土地を紹介してくれたのである。
で、しかもこの土地と言うのが、
「するってえとソコは、代々木の外れの外れにあるアナタの従兄の連れ合いのお父さんが遺したという土地で、それがなんの因果がまわり回ったのかは分からないがアナタの持ち物になってしまった場所で、ちょうど一軒家を建てるのに格好の空地なんですか?」
みたいな土地で、更に、
「え?!そんなお値段でよろしいんですか?」
と、近隣の不動産屋たちの上から目線に心が折れかかっていた直克が目をひん剥きながら前のめりに二度聞きするようなお値段だったのである。で――、
「ええ、ええ。相続税やら固定資産税やらなにやらかにやらで、もう持っておくだけでも気が滅入っていたんですよ――皆さんのお役に立てるんなら、もう、それで十分です」
と、件の老紳士は言い、
「あ、ありがとうございます!!」
と直克は、その老紳士のあばらが折れんぐらいに彼をハグすることになったのであった。
*
と、いうことで。
晴れてその翌年。
我らが楽しい三尾一家は、この代々木の外れの外れの土地に新たな一軒を構えたのであった。が結局、この土地からも七年ほどして去って行くことになるのだが――それは次回の講釈で。
(続く)




