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第八話:十九の春と二十九の春(その1)

 樫山泰仁 (31) は、このゴミ溜めのような東京という大都会が好きだった。


 というか、この世に生を受けてからずっと、このアホみたいな街で――その片隅で――ずうっと暮らしているのだから、好きになるしかないのだけれど。――と、自分で自分にそう何度も言い聞かせて来た。


 生活に不満があるわけではない。


 住む家は――そこいら中にガタが来てはいるものの――しっかりあるし、仕事も――まあ“貧乏暇なし”的にではあるが――そこそこ順調。


 友人も――腐れ縁のやつらばかりだけれど――仲が良かったり悪かったり。


 気になるのは、旦那に逃げられた――兄バカ的にも優良物件とは言い難い――妹のことだが、これも最近は大分落ち付いて来たように見える。


 後は……、


「にゃん? (訳:あなたはどこにでも行けますが、あなたはどこにも行けません)」


「そうそう。お前もいるしな」


「にゃん! (訳:冷たいブルーベリーワインとシナモンチェリーパイのような夢です)」


 そうそう。それに気になる女性も――毎度のことながらどうアプローチして良いかまったく分からないけど――いるし、近所の格安スーパーのコロッケはいつだって美味しい。


 そう。


 樫山泰仁 (31)は、東京というこのゴミ溜めのような街が好きだったし、彼が東京を好きなのは、東京を好きな方が生きて行くうえで有利だったからだし、そのために必要なものも彼は持っていた。


 住む家と仕事と友人。気になる女性と愛すべき近所の格安スーパー。


「にゃ? (訳:“あの人”の声は今でも聞こえて来ますか?)」


「はいはい。忘れちゃいないよ」


「にゃーん (訳:冷たいブルーベリーワインとシナモンチェリーパイのような夢でした)」


 もちろん愛すべき飼い猫もいて、胸には小さな穴が――つまり、なにごとにもこだわらずにすむ小さな秘密の穴が――空いている。


 そう。


 ひとはだれしも、生涯に一度か二度、すばらしいチャンスに出くわすことがあるし、そのどうしても逃したくないチャンスを逃してしまったら、あとは妙に気楽に生きていけるようになるらしい。


 そう。


 樫山泰仁 (31)は、過去に一度、そのすばらしいチャンスってヤツをつかみ損なった。


 いや。


 どちらかと言うと“自ら手放した”と言ったほうが正解かも知れない。


 だから。


 そのことを想うと以前は身震いがするほど自分を責め苛んだものだけれども、最近ではそれもあんまり気にしなくなっていた。


 多分。


 彼のなかにある“そーゆー部分”が死んでしまったか、仮死状態にはいってしまったのだろう。


     *


「お父さんが来る?」と、佐倉伊純 (29)が三尾漱吾 (31)に訊いた。「――って、いまどちらにいらしゃるんでしたっけ?」


     *


 さて。


 三尾漱吾の実家というか生家はいまはもう既にない。


 というか、“父母の住んでいる家”と云う意味での“実家”ならちゃんとあるのだけれど、その“実家”ってやつはその場所を転々としていて……いや、転勤族とかそういうワケでもないんだけれど…………うん。ちょっと補足しておこう。


     *


 先ず。


 “三尾漱吾が生まれた場所”……と云うのはもちろん病院になってしまうのでアレだが、三尾漱吾が生まれた時、彼の両親が住んでいた場所は、曙橋にある小さな一軒家だった。


 この家は、彼の曾祖父の時代に建てられたという結構年季の入った結構なボロ家だったのだが、彼が4才の春、隣家からの不審火によって、彼のこのボロ家を含む近隣4軒が全焼するという大火事に見舞われることになってしまった。


 そのため、彼ら一家は一夜で着の身着のままの宿無しとなってしまったのだが、その頃たまたま彼の父親と仲の良かった電気関係の職人さんが、これもたまたま一夜で奥さんに逃げられ一夜で男やもめになったところだったので、


「よければ直さん、ウチに来なよ」


 と、ありがたい言葉を掛けてくれた。


 そのため一家は、この職人のやさしい呼びかけに応え、次の家に移るまでの3週間ほどをその職人の家に転がり住むことになった。


 あ、ちなみに“直さん”ってのは、漱吾くんのお父さん・直克さんのことね。


 で。


 その職人さんの家は何故かやたらとだだっぴろく、漱吾一家は焼け出される前よりも広々とした空間を享受していたし、


「こんな広い家にひとりってのも、やっぱ寂しくってよ――」


 と、職人さんも言っていたことなんかもあって、なんて言うか、一家が出て行く前日には、近所の寿司屋から食べ切れないほどの酒と寿司が持ち込まれたりもしたんだけど (全部、職人さんのおごり)、それでもやはり、


「そうは言ってもよ、金ちゃん。ずっと甘えてるワケにもいかねえじゃねえか」


「な、なおさ~~ん」


 と、涙ながらの別れをすることになる。


 ちなみに“金ちゃん”とは、この職人・正岡金之助のことで、彼はこの五年後、直克の紹介で、15才も年下の女性と再婚することになるのだが、まあ、これもまた本編とは――多分、ほとんど――関係のない別の話なので、割愛するね。


 で。


 さて。


 そんなこんなで職人の家を後にした我らが三尾一家なのだが、彼らはこの後四谷三丁目にある手狭なアパートへと引っ越し、ついでにその頃、


「ま、お布施みてえなもんだよ」


 と、結構手厚く掛けていた火災保険&家財保険の金額がほぼ確定。


「あんた!それほんと?!」


 と、毎年の保険の支払いに文句ばかり言っていたハズの直克の妻・漱吾の母も、その予想外の金額に、


「あー、もー、それは安心した。あー、もー、それは安心したよ!――ってか、火事さま様だね!!」


 と、大層ツッコミどころ満載なセリフを大層盛大に口にしつつ、大層身重なその身体を欣喜雀躍させた。


 あ、そっか。


 えーっと……そうそう。


 右で“身重なその身体”と書いた通り、その頃彼女は、4人目&5人目の子供を絶賛妊娠中なのであった。


「ま、そうするってえと、また一軒家を持てないこともないけどなあ――」


 と、ある日の晩酌時、メザシとバターピーナッツで麦焼酎を飲りながらの直克。


「問題は、場所をどうするかだよなあ?」


「元の場所じゃダメなのかい?」


「瓦礫の撤去費用が想ったよか掛かってさあ、あそこに建て直すってなると、大分アシが出るんだよなあ――」


 時は西暦1992年。


 世間はいまだバブルの二日酔いの中にいたとはいえ、実直な生活人である直克には“土地転がして、濡れ手で粟”的な発想はまったくなかったようである。――ま、結果的にはそれで良かったんだけどさ。


「出来れば、この辺からは出て行きたくないんだけどねえ」


 と、双子の入ったお腹を優しくなでながら漱吾の母・千枝は言い、


「どっか近所に、手頃な空地でもありゃあ良いんだがな――」


 と、メザシとバタピーと麦焼酎を一気に流し込みながら直克は応えた。


 目の前では、三人の子どもたちが、前述の職人から餞別に貰ったゲームボーイを取り合いながら遊んでいた。



(続く)

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