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第七話:コペンハーゲンと小さな青い箱(その14)

 さて。


 それからしばらくして山岸真琴 (28)は、その店の初老のウェイターに食後の飲み物をどうするか訊かれたときにようやく、彼の今夜の本来のお相手・清水一伽 (25)が、席に戻って来ないことに気付いた。


 彼女の席の“レモンのソルベ”は、気を利かしたウェイターがとうの昔に下げていてくれたらしい。


「彼女……お手洗いにしては長くない?」


 と、慣れない店にいるせいか、それとも高めのワインに酔ったせいか、それともただただ単純に、“時は飛ぶように過ぎる”せいなのかは分からないが彼は、そんなある意味残酷な質問を、目の前に残った女性・中谷あきら (25)に与えた。


 するとあきらは、そんな彼の――ある種無邪気で無防備で、だからこそそこに惹かれてもいた彼の言葉と表情に、ほんの少しだけ口元を歪ませると、


「そうね」と、小さく言った。「たしかに、遅すぎるわよね」


 それから彼女は、右手側に、真琴の側に置かれていたレモン水の入ったグラスを、ためらいながら手に取ると、それをひと口すすってから、


「きっと、戻って来ないと想うわよ」と、こんども小さく、答えた。「――私たちも、そろそろ帰りましょ」


「え?なんで?だって、まだ飲み物が――」


 と、男は時を止めようとし、


「だって、それはダメよ、分かるでしょ?」


 と、女は時を動かそうとした。


「ダメだよ、分からないよ」


 と、ふたたび、時間に抗いながら男は続ける。


「だって、飲み物はまだあるし、ぼくはコーヒーがいいな、最近はコーヒーだって飲めるようになったんだ。それにそう、まだこんな時間だし、時間ならたっぷりあるじゃないか、お店が閉まるまでにはまだまだ余裕がある。それに、ほら、あきらとの話だってこんなに面白いし、楽しいし、ぼくら、こんなに気が合ってるじゃないか――」


 しかしそれでも女は、


「でもね、マコト――」


 と、彼の抵抗を止めようとした。


 が、しかし、それでもやはり男は、“時の女神”の思惑など気にするものかと、女の手を強く握ると、


「“でもね”はイヤだ。今夜ぐらいは、それは、それは、――ちょっとだけでも、なにかその辺のさ、固くて、頑丈で、小さな、青い箱にでも入れておいてさ、カギを掛けてさ、どこか、その辺にさ、ほうっておいてくれよ」


 と、言葉を続けた。


「あきらだって分かってるだろ?ぼくら、ぼくら、こんなに、こんなに、気が合ってる――そう。気が合ってるんだよ?こんな、こんな不思議なことってないじゃないか。それに、それに、君は、君は、そう。それに君は、君のお腹のなかにはぼくの子どもだっている。――なにも問題はないハズだろ?」


 と、ここまで言って男は、握った女の右手に自身の額を当てると、まるで許しを請う殉教者の如く、彼女に向かい、しかし彼女の目は決して見ぬままに、その鼓動と体温に向け、


「……ぼくたち、もう一度、やり直せないかな?」


 と、訊いた。


 時が、一瞬だけ、動くのを止めてくれた――そんな気がした。


 ほかの客の会話も物音も、店に流れていた音楽すらも、すべてが止まったような――そんな気がした。


     *


 ぴいぃっ。


 と、東の空で、鳥の鳴く声が聞こえた。


 “良い兆し”であれば良いのに。


 そんなことを、想った。


     *


「ごめんね、マコト」


 女は応えた。


「あなたのことは好きよ、これは本当。そりゃ、憎んだりしたこともあったわ、これも本当。――でも、それでも、あなたのことを愛していたのも本当」


「でも、だったら――」


「でもね、でも、それでもさっき、あなたがカギを掛けた、あの固くて、頑丈で、小さな青い箱だけど、あれは、あの箱は――もうそろそろ、開けて中を見ないとダメでしょう?」


     *


 さて。


 それからしばらくして樫山詢子 (27)は、その店の若いウェイトレスがオーダーストップの旨を伝えに来たときにようやく、彼女の目の前に座る男性・楡尚紀 (28)が――あるいは自分が――何故、いま、ここに、いるのかを不意に合点した。


     *


 ぴゅぅいっ。


 と、西の空で、鳥の鳴く声が聞こえた――ような気がした。


 “良い兆し”であれば良いのに。


 そんなことを、想った。


     *


 酒も食事も十分に過ぎたふたりは、ふたりともが、ウェイトレスおすすめのやたらと発音の難しいなんとかとかと言うヨーグルトアイスを注文した。


 男のほうにはチョコソースをかけてもらったが、女のほうには――彼女にはめずらしく――なにも乗せないようお願いした。


「それで?」


 と、厨房へ向かうウェイトレスの背中にあるコウモリの紋章を不思議に想いながら、先ずは女が切り出した。


「どうして別れたの?」


 そう言ったほんの一瞬のち女は、“だれと”の部分を、多分に無意識的に、忘れていたことを後悔したが、しかしそれでも男は、彼女の意図と、彼女の無意識の意図とを、同時に汲み取ると、


「それを確かめたくて、今日は誘ったんだ」


 と、応えた。


 彼のこの応えを聞いて女は、どうしてこの男と出会い、手をつなぎ、食事をともにし、愛し合い、結婚をし、別れを切り出されても彼を許……してはいないが、必要以上に彼を責め立てなかったのか、その理由が、言葉ではなく感覚として、ハッキリとした――ような気がした。


 ズルいわよね、憎み切らせてくれないんだもん。


「そうよね」


 そう言うと女は、いつも男がするあの笑顔――何とかって役者がフレディ・マーキュリーを演じた時に見せたあのはにかんだ笑顔にそっくりな笑顔――を自分もしてみせてやろうとして、その代わりに、左の目から涙を流した。


「私も、それを確かめたくて、今日は来たんだったわ」


     *


 店の前でタクシーを待っていると百合子さんが戻って来た。


 丁度その時ぼくは、また性懲りもなく、また一瞬だけでも時を止められないものかと、彼女の手を握ろうとしていて、もし百合子さんが声をかけるのがほんの少しでも遅れていたら、また、さっきみたいなバカをしていた――のだと想う。


「ごめんね、マコトくん。ありがとう」


 と、あきらを抱きしめながら百合子さんが言って、


「いいえ、こちらも楽しかったです」


 と、分かりやすい皮肉と笑顔で返した。


 彼女も、この場に一伽さんがいないことについて何か言いたそうだったけれど、それは互いに言うべきではないと彼女も感じたのだろう、自然に流されていた。


 そうして、それから、西から強い風が吹いて、黒と黄色のタクシーは到着した。


 ふたりをタクシーに乗せて、手を振って別れた。


 マンションまで、ひとりで歩くことにした。


 まだまだ、夏は終わりそうになかった。



(続く?)



 ……、



 …………、



 ………………、



 ……………………ヒック。



「さ~あけぇ~は、のぉ~めぇのぉ~めぇ~、のぉ~むなぁ~らばぁ~~ってか?」


「………………………………詢子さん?」


「……うん?…………あれ?マコト?マコッちゃん?マコッチ?マコトさん?……マコトさんじゃーん。――なに?きょおも、きっれいなかおしてますねえ?」


「……酔ってるんですか?」


「ぜっんぜん!わたくし!かしやまジュンコは!!ゲイカイスイコウ!!土佐のクジラはオオトラでございます!!!酔うハズなど!!!!ございません!!!!!」


「……ベロンベロンじゃないですか」


「そーれーはーー、ア・ナ・タ・に、ベロベロだからでございますことよ!よっ!!このイロオトコ!!!」


「はいはい。取り敢えず道ばたに座り込んでちゃダメですから……立てますか?」


「……ダッコ」


「は?」


「立てないからー、ダッコーー」


「ダッコって……」


「お姫さまダッコがいい」


「…………詢子さん、体重は?」


「(*検閲ガ入リマシタ)kg」


「それは……さすがにちょっと」


「えー!!」


「ああ、分かりました、分かりました。分かりましたから道ばたで寝ないで下さい。……あー、なら、おんぶ。おんぶならどうですか?それなら運べますよ」


「おんぶー?」


「おんぶ」


「…………………………なら、おんぶで」


「はい。じゃあ、ちゃんとつかまってくださいよ?――っと。…………ああ、想ったよりは軽いですね」


「ほらー、だからお姫さ――」


「いや、さすがにそれは無理です」


「むー」


「しかしなんでひとりなんですか?送ってもらえば良かったのに」


「マコッチこそ、ひとりじゃん」


「ぼくはいいんですよ、男の子ですから」


「ふーーん?……ってか、どうだったんスか?先輩」


「へ?」


「おーみーあーいー。キレイなお姉さんとお食事?して来たんじゃないんスか?」


「あー、なんかこう…………フラれちゃいまして」


「えー?こんないい男が?」


「いやあ、自分でも呆れるぐらいのバカで」


「ふーん?――なーんか、しんじられないですけどねー」


「詢子さんこそ、どうだったんですか?」


「へ?」


「漱吾さんに聞きましたよ。会って来たんでしょ?」


「あー、ねー…………なーんかさーー、時間ってのは…………なーんか、戻らないもんですねーー」


「……止まってもくれませんしね」


「そうそう。ってか、男心とかゲイ心とかってヤツはホント分かりませんね」


「それは女心だっていっしょですよ」


「ウソだあ、こんなにわかりやすい生き物いませんよ?」


「それは詢子さんが女のひとだからですよ」


「わっかんないんですか?」


「わっかんないですね」


「うーーん?でもー、だったらあーー」


「……はい?」


「これからもーーーーっと、大変になるんじゃないですか?」


「…………なんでですか?」


「だってー、もうひとり増えるんでしょ?――女の子」



(続く?)



 ……、



 …………、



 ………………、



 ……………………ガチャ。



「ごめん。山岸、悪かったな」


「あ、いえ、別に。偶然一緒になっちゃって」


「あれー?兄さんじゃん。なんでいんのー?」


「お前がみんなに留守番頼んだんだろ?――って、酒くさいな、おい」


「ザル。でございますから」


「ウソ吐け、こんなに酔って」


「ってかなに?みんなまだいんの?」


「ああ、それがさあ――」


「おい!樫山!!もうちょっと静かにしてくれ!!!」


「ここのスイッチが壊れたままだったから、またポーカーやってたんだけどさ」


「樫山!わりい!!あと千円貸してくれ!!!」


「だから漱吾、止めとけって!きょうは日がわるいんだよ!!」


「わーたしは良いわよーー、漱吾くん。チップならまーだ、こんなにあるしーー」


「……伊純さんってポーカー出来たんですか?」


「いや山岸、今日初めてやったらしい」


「ねー、漱吾さん、もう諦めましょうよ」


「うるせえ、グリコ。ビギナーズラックに負けたままで帰れるか――一枚よこせ」


「もー、はい。一枚――伊純さんは?」


「うん?私はこのままでいいわよ?」


「は?」


「おい!ふざけるなよ伊純。お前まだ、テーブルの上のカードをめくってすらいないじゃないか!!」


「だって、あんた負かすのにめくる必要なんかないじゃん」


「あ……この……ちくしょーー」


「先輩、あれ、漱吾さんどれぐらい負けてるんですか?」


「あー、えーっとな……ゴニョゴニョゴニョ」


「そんなに?!」


「伊純くんの方もおかしいんだって」


「えい!くそ!それじゃあ残り全額レイズだ!!」


「はいはい。コール。――そちらの手は?」


「見ておどろくなよ?なんと!キングのフォーカードだ!!」


「あら?」


「さあ、お前のほうをめくってみせろよ!!」


「はいはい。あせらないでよ。――先ずは、ハートの10ね」


「だいたい配られたそのままで勝負だなんて、普通あり得ないんだよ」


「で、これとこれは……同じくハートのエースとジャック」


「たまたまいい手ばかり来て勝ってたけど、ポーカーってヤツは本来、そんな甘いもんじゃないんだよ」


「で、これが……あ、これも同じくハートのクイーン」


「は、これで決まりだな」


「……なんでよ?」


「その最後の一枚がハートのキングだったら、ロイヤルストレートフラッシュが出来てお前の勝ちだけど、それは絶対にないだろ?」


「…………なんで?」


「俺のフォーカードにあるからだよ、ハートのキングが」


「あー……でも、例えば他のハートのカードが来てたら?」


「フラッシュになるけど、それよりはフォーカードの方が強い」


「あー……でもでも、めくってみないと分かんないじゃん」


「だから、めくらなくても分かるんだって。確率の問題なんだから」


「でもでも――」


「デモもストライキもないよ。そんなに言うならめくってみろって、分かるから」


「うーん?……じゃあ、最後の一枚は…………あれ?ハートのキングだ」


「………………………………え?」


 ――あ、やべ、まぎれ込ませちゃったかも?



(続く)

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