第七話:コペンハーゲンと小さな青い箱(その4)
「ちょっと、お兄さん。それじゃあ漱吾さんも読者も全然わかりませんよ」
そう森永久美子 (25)が言ったので、ド・ブロイ=ボーム理論についての個人的解釈を想い付くままに語っていた樫山泰仁 (31)は、まるで白昼夢から醒めたかのように、
「え?あ?――そうかな?」
と、言って彼女のほうを振り返った。
「だってほら、見て下さいよ」
と、今度は反対隣りに座る三尾漱吾 (31)の方に向きなおりながらのグリコ。
なるほど。
確かに、漱吾くんのこめかみからは白い煙が漏れ始め、いつも何かを入れている彼の口は空っぽのままに半開き、そうしてその目はどこか遠い遠い宇宙だかあの世だかを見詰めているようである。
「ああ、そっか、ごめん」と、樫山。「悪かったよ、漱吾。――どの辺から分からなくなった?」
――“どの辺から”ってあなた。
「“どの辺から”ってお前…………“不確定的”とかなんとかって言葉が出たところからショートしてんだけど?」
「え?最初も最初じゃないか」
「だって分からねえんだもん」
「いやだから――あ、そっか。“量子とは波と粒子の性質をあわせ持った物質である”って大前提を言い忘れてたから分からなくなったんだな?
いいかい?そもそも物質を形づくっている最小単位のことを原子と言い出したのは紀元前5世紀の哲学者――」
――って、先生、問題はそこじゃない。あーもー、森永くんお願い。
「お兄さん、お兄さん」
「うん?なんだい?――ああ、もちろんデモクリトスだけじゃなくレウキッポスのことにも言及しようとは想ってたんだけど、さすがにそこまで漱吾に伝える必要もないかなって想っ――」
「あ、いえ……えー、ちょっと私が代わりに説明するんでもいいですか?」
「え?そう?」
「ええ、是非」――いつまで経っても話が進みそうにないので。
「あー、じゃあお願いしようかな?」
「了解です」――いやはや、ほんと“この作者にして、このキャラあり”ですね。
――うん。ほんとなんかゴメン。
「えーっと。ではですね、漱吾さん。――漱吾さん?」
「あ、ごめん。なんか死んだバアちゃんと会ってた」
「あ、ですので、選手交代です」
「え?あ?そうなの?うん。頼むよ」――ってか、そろそろ普通にポーカーやらない?
「ちょっと、いままでのお兄さんのお話は一旦忘れていただいてですね」――ま、ちょっとお話の流れ的に必要だそうですから、もう少しお付き合い下さい。
「うーん?じゃあ、簡単に頼むぜ」
「はいはい。えーっと――それでは先ずは…………そうですね、外からはまったく中が見えないひとつの箱を想像してみて下さい」
「は?なんでそんな――」
「いいから、想像するだけですから」
「あ、うん。――うん。想像した」
「そしたら次に、その中に一匹のネコ――まあ、お兄さんところのフェンちゃんが入っているとでも想像してみて下さい」
「うん?――うん。オッケー、想像した」
「いま、箱の中は見えませんよね?」
「うん?――あー、まあ、外からは見えないんだもんな」
「そうそう。――で、実はその箱には“普通のエサ”が出て来る穴と“食べたら死んでしまう毒入りのエサ”が出て来る穴があると想像してみて下さい」
「へ?――なんでそんな?」
「いいから、ただの想像ですから」
「はあ。――うーん?よし、想像した」
「すると、ある時間になると、どちらかの穴から“エサ”が出て来て、お腹を空かしたフェンちゃんはその“エサ”を食べると想像して下さい。――ここまでは良いですか?」
「うーん?――ああ、よし、想像出来た」
「で、この“エサ”なんですけど、この“エサ”がどっちの穴から出て来たのかは、漱吾さんも含めて、外のひとからは分かりませんよね?」
「うん?――あー、外からは見えないからか」
「そうですそうです。――ここまでは良いですよね?」
「うん。大丈夫だ」
「それでは、ここで問題です。――いま、箱のなかのフェンちゃんは、生きているでしょうか?死んでいるでしょうか?」
*
「なに?じゃあまだ、どっちか言ってないの?」と、佐々木百合子 (27)が言い、
「うーん?“言ってない”っていうか、言おうとしても聞いてくれないって言うか――」と、中谷あきら (25)は答えた。「“出て来た時に知りたいから”の一点張りで」
「はあ、これだから男ってやつは」
「“男のひと”ってよりは“真琴が”って感じだけど」
「まったく。すこしは頼りになって来たと想ってたのに――診察にもイヤな顔せず付いて来てくれるようになったしさ」
そう言う百合子の言葉にあきらは、美山助産院からもらって来た献立表 (食べて良いもの悪いものリスト)から目を離しながら、前回の検診で――二週間前の、山岸真琴 (28)とふたりで行った検診で――彼とつないだ手の感触と温かさを想い出していた。
『なんで、急に手を握って来たのかしら?』 (注1)
それから彼女は、不意に、出来るだけ考えないようにしている考えを、想い出したかのように巡らそうとしたのだが、そんな彼女の想いを遮るかのように百合子が、
「だったらさ」
と、後ろから彼女を抱き締めながら言った。
「今日来たときにさ、無理矢理教えてやろうよ」
*
「は?――そんなもん開けてみねえと決まらねえだろ?」
と、三尾漱吾は、『なにをバカなことを言ってるんだ?』とばかりに答えた。
すると、この答えを受けた森永久美子と樫山泰仁は――一瞬、おどろいた顔になってからだが――互いに互いの顔を見合わせると、
「正解です」
と、先ずはグリコが言い、
「そうなんだよ、漱吾」
と、樫山が続けた。
「それがさっき言った“観測することで事象が収縮し結果が定まる”ってことなんだ。つまり、そのシュレーディンガーってひとは、そのことを“アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンパラドックス”所謂“EPR論文”を補足する論文の中で――」
と、続けたのだが――、
*
「ごめん、坪井、ホントどうにかして」
と、本田文代編集部長 (54)が言ったので、この言葉を受けた坪井東子 (30)は、
「はいはいはいはい、それはもう」
とばかりに、この部屋の――いつもの詢子さんのいつものマンションの――チャイムを鳴らすことにした。
*
ピンポーン。
と、なのでまあ、そのおかげもあって、
「――だけどこの議論では局所実在論的な考え方に基づいて、ある時点での実験が超光速で行なえるということを…………って、だれか来たみたいだな?」
という感じで、樫山のおしゃべりは止められることになり、
「ああ、きっと伊純よ」
と、やっとセリフを与えられた樫山詢子 (27)が席を立ちつつ言った。
「私、開けて来るわね」
言ったのだが、坪井くんがちょっと事を急ぎ過ぎたせいもあったのか、このチャイムを鳴らしたのは、佐倉伊純 (29)ではなかった。
*
ガチャ。
「ごめんね、伊純。それがやろうって言ってたマリ〇パーティーなんだけど――」
と、ここまで言って詢子は、急に固まると、次の言葉を何も言えなくなってしまったので、その代わりに、扉の前に立っていた男性――楡尚紀 (28)が、例の何とかって役者がフレディ・マーキュリーを演じた時に見せたあのはにかんだ笑顔とそっくりな笑顔を見せつつ――、
「ひさしぶり」
と、言った。
「いまちょっと話せないかな?――詢ちゃん?」
詢子の別れた夫だった。
(続く)
(注1)
第六話“その5”を確認のこと。
よくよく読むと分かるが、最初に真琴くんの手を握って来たのはこちらのあきらさんの方である。――ほんと、女ってのは罪深いね。




