元の鞘に戻る男女
願ってもない要望だった。
駆け落ち。
それが意味することはあまりにもわかりやすく、思わず即決で了承をしてしまうところだった。
電車はまだ訪れる気配はない。
それがこんなにも嬉しいのに、苦しいのはどうしてだろう。
それは多分、その行いをすることでのリスクをわかっているから。
だけど、それを行いたいという猪突猛進な自分がいるから。
ふと、考えてみた。
駆け落ちをしてみて、俺達がどうなるのか、を。
答えなんてわかっているのに、俺はエミを待たせて答えを探した。
きっと、正当化したかったんだと思う。
エミと駆け落ちしたいのか、したくないのか。
そんなこと、答えはあまりにも明白だったから。明白だったから、正当化する理由付けを探したんだ。
エミと駆け落ちすること。
それはつまり、エミと結ばれることを意味している。
親元を離れるのだから、それは逃げ場を失うことでもある。だからこそ俺達は、互いに協力し合わないと明日を生きることも苦しくなるのだろう。
まだ高校生の身の俺達に、明日を生き抜くだけの財力なんてありはしないから。
どんな生活をすることになるのだろう。
身分を偽り、アルバイトで生計を立てるのだろうか。
実質中卒となることを意味するが、周囲の悪漢達に騙されず生きていけるのだろうか。
……エミを悲しませずに生きていくことは出来るのだろうか。
答えは、あまりにも明白だった。
エミと一緒に駆け落ちすることも悪くないと思った。
たかが転校騒動でそこまで思い詰める必要はないと思ったが、それでも彼女と一緒に暮らせる日々を心から願った。
全てを投げ捨ててでもエミと結ばれたいと思ったんだ。
俺はエミと駆け落ちしたい。
でも……きっとそれの障害を俺達二人は乗り越えていけないのだろう。
好きな人と結ばれたいこの気持ちは、一時の激情であるが……一生の運命を決めるだけの尊さはあるのだろうか。
「……たった、二年くらいだ」
ようやく頭が冷えた気がした。
エミは、何も言わなかった。
「二年経ったら、絶対こっちの大学に入る。エミと同じ大学だ。今みたいに隣の家には入れないと思う。今よりも少し遠くの……アパートに一人で暮らして、たまにはエミにも来てもらって、それで一緒に時間を過ごすんだ」
「うん」
「そこで、二年間の別れの時間を取り戻せばいい」
「……うん」
電車のアナウンスが、あまり大きくない駅構内に響いた。単線のホームに、まもなく電車が滑り込んでくるそうだ。
「あたしのこと、嫌い?」
「そんなことない」
「好き?」
「うん」
「……口にして」
「え……」
「口にしないと、わからないこともある」
ほぼ口にしている気がするんだけども。
「……す、しゅきだ」
「……そっか」
噛んだことと告白が相まって、頬が染まった。その頬を冷ますためか、電車が冷風を俺に浴びせた。その冷風は、エミの髪を撫でた。
「好きだから……だから、駆け落ちは出来ない」
エミのことが好きだった。
一瞬、駆け落ちをしてもいいと思えるくらい、激情に駆られるくらい好きだった。
だけど……好きだから激情の赴くままに生きることは正しくないと思った。
激情では、彼女を幸せにすることは出来ないんだ。
『口にしないと、わからないこともある』
彼女はそう言った。
口にしないとわからないこともある、と。ただ逆に……口にせずともわかることもある。
両者の幸せを願うなら、ここで出すべき選択は……一つしかなかったんだと思う。
「浮気しない?」
「しない。甲斐性がない」
「毎日電話してくれる?」
「する……つもりだけど、たまにはそっちからもかけてよ」
「……二年間、あたしへの気持ちは変わらない?」
「それだけは断言出来るよ」
電車の扉が開いたから、苦笑しながら俺は電車に乗り込んだ。振り返ると、エミは悲痛そうに俯いていた。
「ずっと好きだよ。ずっとね」
歯の浮くような台詞に、エミが微笑んだ。恋愛という熱に浮かれていないとこんな台詞は二度と吐けないと思った。だけど、今熱に浮かされていて吐けて良かったと思った。
エミの微笑む顔は、とても美しかった。
帰りの電車にしばらく揺られ、自宅に着く頃には既に外は真っ暗になっていた。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
隣の家にエミを見送って、これから後どれだけこんな会話が出来るのだろうと寂しさを覚えた。大学に入学したらこっちで再び生活するとはいえ、お隣さんの関係はこれで解消されるのだから。
でも、多分自分の行いに間違いはなかったと心の底から思っていた。
人一人を幸せにするために、俺はまだあまりにも幼く無力だったから。
これで正しいと思っていた。
……ただ、やっぱり寂しさがないわけではなかった。
二年間。
これまでの十六年間は振り返ると長い。それの八分の一の時間も別れるだなんて、身が引き裂かれそうな思いだ。
でも、これで正しかったのだろう。
俺は幼く無力だから。
親の援助なしでは生きていけないのだから。
これで……。
「おお、ツヨシ」
家に帰ると、父と母がいた。強張った顔で、椅子に腰かけていた。
「座りなさい」
薄々思っていた。
いくらエミの両親の仲介があったとはいえ、俺の両親は俺を咎めるだろうと。
ただ、決心と覚悟が付いていたから、俺は嫌がる素振りもなく両親の対面の椅子に腰かけられた。
「こんな時間まで、エミちゃんと二人で遊び呆けていたみたいだな」
父の声は冷たかった。
「うん」
「転校したくないからと駄々をこねて、彼女を巻き込んだそうだな」
「……うん」
空気が重かった。
父から浴びせられる鋭い視線が、痛かった。
長い沈黙が流れた。
思わず窒息しそうなほどの、長い沈黙と緊張だった。
次に室内に響いた音は、父の溜息だった。
「……どこまで行ってきたんだ?」
「……え」
「エミちゃんと、どこまで行ってきたんだ」
父の声は以前怒っているように聞こえた。だから余計に、どうしてか父が滑稽に見えた。
「え、江の島」
「生しらすは?」
「食べた」
「水族館には?」
「……行かなかった」
「どうしてだ、有名だろう?」
「……お金がなかった」
「事前に言えば、お小遣いくらい渡したのに」
ようやく母が口を挟んできた。
「デートするのにお金も満足にないくらいの子供なんだよ、お前は」
父は厳しく俺を批判し、再び溜息を吐いて天井を見上げた。
「でも、好きな人と二人きりで出掛けて帰ってこれるような年ごろになったんだよな」
続けた父の声は、どこか寂しそうだった。
「この前までお父さんお母さんって後を付いてくる子供だったのに、気付けばすっかり大人になりかけていたんだな」
「……うん」
「……この家に、残りたいか?」
「え」
「この家に、残りたいか? お父さん一人で単身赴任した方がいいか?」
俺は沈黙した。いきなりそんな選択、早々出来っこない。
「ツヨシ、お前が選びなさい」
父の声は依然鋭い。
「大人になるということは、選択するということであり、選択したことに対して責任を取るということだ。お父さんが単身赴任すれば、この家で男手はお前一人になる。お前がこの家の大黒柱になるんだ」
父の言葉は、重い言葉に聞こえた。
「お前に、それが出来るか?」
父の代わりになること。
それが、俺に出来るか、か。
「父さんの代わりにはなれない」
それが率直な俺の答えだった。
「でも、やる。責任だって取る。それでここに入れるなら、絶対にやりきってみせる」
「……それくらい、エミちゃんのことが好きなんだな」
「うん」
ゆっくりと頷くと、再び父から溜息が漏れた。
「……任せたぞ」
もっと怒られると思った。
もっと否定されると思った。
お前には無理だと、否定されると思ったんだ。
でも父は……俺に任せてくれた。
まだ俺が未熟なことはわかっている。だけど、父は認めてくれた。それが父に認められたことのような気がして、俺は涙を堪えることに必死になっていた。
「お風呂、入ってきたらどうだ」
「……うん。そうする」
涙を見せたくなくて、俺は椅子から慌てて立ち上がって風呂場に向かった。
シャワーを浴びて、気持ちを落ち着かせた。
少しずつ、昂っていた気持ちが収まっていった。
ふと、気付いた。
これで俺は、エミと別れる必要がなくなったんだ、と。
全ては誤解から始まった。
転校するからとエミに告白し、間違いだったからなんとか誤解を解こうとして、そうして本当に転校する羽目になりそうになって、なんとかそれも収まって……。
「明日、エミになんと話そうか」
思わず頭を抱えそうなくらい難解な話なのに、どうしてか俺の頬は綻んだ。




