後悔しない人生
昔、父の仕事の都合で各地を転々とする生活を送っていた。所謂、転勤族というやつだ。
決まった定住地を持たず、周囲を転々とする生活は、子供ながらに辛いものがあった。何せ、転校した先で築いた友人との関係がすぐに断ち切れてしまうから。
自分本位な性格も相まって、今の定住地に長らく住むようになるまで、友達がまともに出来た経験はなかった。
かつての記憶を思い出すことは、少しだけ嫌なものだった。
だけどそれに対して、今の定住地での生活は俺の人生に彩を与えているような、そんな錯覚を覚えさせるほどの楽しいものだった。
父が今の支所に転勤して、そろそろ八年が経とうとしている。
その間、この地で築いた記憶、経験、交友関係は計り知れない。
とてもとても、素晴らしい思い出達だった。
こんなにも人生が彩られた理由は、多少なり俺の性格も変わっていったこともあるだろうけど、多分一番は……引っ越してきたその日から、俺の面倒を見てくれた隣の家に住む少女のおかげなのだろう。
桜庭恵美。
年齢は俺の一つ上で、引っ越してきたその日から、彼女にとって俺は弟のようなもので、俺にとって彼女は姉のようなものだった。つまり、気の置けない相手、ということだ。
そんな彼女に対して、今胸に秘めているこの想いを抱き始めたのはいつ頃だっただろうか。
この気持ちは、今日まで一度だって彼女に打ち明けたことはなかった。
彼女は、人気者だった。
美人で博識で勝気で笑顔も素敵で、そんな彼女のことを好きな男子は、学校にたくさんいた。
今の性格のままでは、彼女はきっと俺を受け入れてはくれないだろう。
当時、俺はそう思った。
不思議と、だから諦めようと思うことはなかった。
多分、そんなことで諦める程度の想いではなかったんだと思う。
俺はそれから、色々と努力を重ねた。
一に勉強二に勉強、三四が自己啓発で五が勉強。
とにかく、勉強への時間を多く設けた。
彼女が博識だから、それに負けたくなかった、という思いもあったが、それよりも一番の理由は知ることへの喜びに目覚めたことが大きかった。
そして、勉強を好きになることで、彼女と勉強する時間。一緒にいる時間も増えたから、一石二鳥だった。
苦手だった対人関係も、勉強をこなすことで少しだけ軟化された気がした。角が立たない台詞だとか、相手の心情だとか、そういうのも勉強からは学べた。
勉強、マジでやっておくべき。
とにかくその結果、昔までの灰色の学生生活を送る俺の姿はもうどこにもなくなっていて、二年の五月、たくさんの人の支持を得て、俺は生徒会長に任命されることになった。
今なら、彼女の隣に立つことが出来るのではないだろうか。
たくさんの努力を重ね、周囲からの確固たる信頼も得て、俺はそう思った。
そう思った矢先のことだった。
その日は珍しい光景から始まった一日だった。
いつもなら家を出ている時間なのに、どういうわけか父がまだ家にいたのだ。
「どしたの、もう出ないと遅刻するんじゃないの」
「まあまあ、いいじゃないか。たまにはさ」
そういう父の顔は、満面の笑みが貼り付けられていた。
少しだけ嫌な予感が脳裏を過った。
かつてのトラウマが脳裏を過ったのだ。
あの日。
父が俺に転勤することになったことを話してくれた数々のあの日々。
父は、いつも不器用で不細工な笑顔を貼り付けて俺に近寄ってきた。
多分、転勤することへの不安を少しでも解消してほしかったからなのだろうが……おかげで俺は、父の笑顔が少しトラウマになってしまっていた。
ああ、そうか……。
あんなに努力してきたのに。
あんなにエミの隣にふさわしくなれるように努力してきたのに。
それも、こんな形で終わってしまうのか……。
「京都で行ってみたい場所とかある?」
軽々しく、父は言った。
それもまた、転勤が決まった時、父がいの一番に発する常套句だった。
目の前が真っ暗になった気がした。
「先輩、今日はどんよりとした目をしていますね」
後輩で書記の藤平さんが軽い口調で言った。
生徒会役員が任命されてからまだ数日、前期の生徒会メンバーの汚した部屋の清掃から、我が代の生徒会役員の仕事は始まった。
「そう?」
「はい。人当たりの良さそうな顔立ちをしているのに、目だけ死んでいて面白いです」
ケラケラと笑う後輩に、まだ距離感もわからないから文句の言葉も出てこなかった。
「色々あるんだ」
「へえ、それって生徒会の仕事に関すること?」
「そうそう。選ばれたは良いものの、果たして俺で良かったのかとか色々考えてしまっている」
何せ、もう少ししたら俺、転校することになるんだし。
そうしたら、生徒会会長どうなるんだろう?
繰り上げなのか。はたまた再選挙するのかな。
まあ、それが行われる頃にはもう、俺は部外者になっているのだろう。
そう思ったら、ただ寂しい気持ちだけが胸の中に渦巻いて、涙が零れそうになった。
「よくわかりませんが、後悔はしないようにした方がいいですよ」
「……後悔?」
「はい、後悔です」
藤平さんは肩を竦めて、続けた。
「人って、簡単に後悔する生き物じゃないですか。この世に生きるどの種よりも知能が高く、時間が巻き戻るはずがないことを知っているくせに、浅はかな行動に出て、ミスをして、後悔するんです。そうなるかもってわかっていながら後悔するんです。
だから、何があったかは知りませんが、キチンと後悔しないように、と胸に刻んだ上で行動した方が絶対いいですよ。
そうした方が、後悔しない選択はグンと増えるはずです」
「……そっか」
藤平さんは、語りたがりな少女らしい。
まだ交友関係を築いていない内から、そんな説教臭い話を人にして、相手がどう思うのか。
それを考えていないらしい。そうでなきゃ、相手のこれまでを否定するようなそんな発言、中々言えるものではない。
それだけ彼女は語りたがりなのか……はたまた、俺がそれだけ言われても腹を立てることなく、むしろ関心することを知っていたか、どっちかなのだろう。
「……ありがとう。藤平さん」
「いいえ」
微笑む藤平さんの笑顔は、どうしてかとても魅力的に見えた。
その日の生徒会活動終わりの帰り道、俺は一人のんびりと考えていた。
父が再び転勤することになるかも、とこれまで俺は、一度だって考えたことがなかったのか、という話だ。
父が転勤族であることに、恨みはなかった。
父は俺と母のために、辛い思いをしながら必死に金を稼いでいてくれている。俺が思っているよりもずっと辛い思いをして、働いてくれている。
そんな父に、文句なんて一切ありはしない。
そして、父がそんな辛い思いをしていることを知っているからこそ。
今朝まで一度も、父が再び転勤することになると思っていなかったか、と問われたら、ノーと答えざるを得ない、というのが正直なところだった。
再び父が転勤することがあるかもしれない。
父が転勤することになり、エミと別れる日が来るかもしれない。
そんなこと、とうの昔から俺は危惧していたはずなのだ。
なのに、いざその場面に立ち会うと、気分を害すほどに辛かった。
それは何故か。
後悔したからだ。
……どうやら、藤平さんの言う通りだったらしい。
「よっ、青少年!」
突然、背中を思い切り叩かれた。
「いってぇ!」
きゃはは、と笑う声に、聞き覚えがあった。
「……エミ」
その人は、今俺が最もどんな顔をして会えばいいかわからない人。
俺の好きな人。
俺の大切な人。
エミだった。
「どしたい、辛気臭い顔して」
「……色々あるんだ」
「ほほぅ。さすが生徒会長。いやはや、驚くくらい出世しましたねぇ、ツヨシ」
エミが、まるで自分のことのように俺の頑張りを褒めてくれたことが嬉しかった。
「……エミは部活? こんな夜遅くまで」
エミは吹奏楽部に所属している。楽器はトランペット。どうやら、我が校のエースと呼ばれているそうだ。
「そうそう。よくわかったね」
「そりゃあね。生徒会室からもエミの音色は聞こえてたから」
「あら、音を聞くだけであたしの音色だってわかるの?」
「勿論。俺の家の方が新しくて、防音構造もしっかりしている、とか言って入り浸った人がいたからね」
「あら、そんなことあったかしら」
「誤魔化せてねーよ」
苦笑しながら、これまでどれだけエミと一緒にいたのか。それを再確認させられていた。
色々な思い出を共有してきた。
楽しかった思い出。
泣かされた思い出。
泣かした思い出。……はなかったな。
怒られた思い出。
怒った思い出。……もなかったな。
あれ、俺もしかして、これまで結構、エミに良いように扱われていた?
「……アハハ」
ふと、過去を思い出したら、突然笑えてきてしまった。
「何よう。突然笑い出して」
「ごめんごめん」
どうしてか、笑うことは中々止まらず、俺は笑い泣きしながらエミに手で制した。
そうか。
彼女と。
エミと。
これまで、色んな思い出を共有してきた。
その思い出は、これまで灰色だった俺の人生からしたら、まるで人生観を変えるような刺激的な毎日だった。
どうして、そんな刺激的な毎日を送れたのか。
それを考えてみると、どれだけ俺がエミに支えられていたかを再確認させられてしまったんだ。
俺が変わろうと志したのは、エミのおかげだった。
俺が交友関係を築いていけたのは、エミのおかげだった。
俺が泣いた時、一番に俺を泣き止ませようと慰めてくれたのも。
俺が泣き止めたのも、エミのおかげだったのだ。
俺の人生は、エミのおかげで色づいた。
彼女がいたから今の俺がいる。
「好きだよ」
気付けば、口から漏れていた。
それは、エミへの想いだった。
少しだけ、迷っていた。
別れることがわかっているに、俺の本心を彼女に伝えていいのか。
だけど、藤平さんに後悔しないように胸に刻まれたことと。
そして、どれだけ俺がエミのことを好きでいたかを知らしめさせられて。
俺は、溢れる想いに蓋をすることが出来なくなってしまったのだ。
「ふうん」
エミは、数歩俺の前を先導するように歩いて、
「ふぇっ!?」
慌てて、こちらを覗いた。
「ちょ、ちょっとツヨシ。それってどういう……?」
「そのままの意味だ。エミ、好きだよ」
「えぇ……?」
エミの顔は、今まで見たことがないほど、まるで茹蛸みたいに真っ赤だった。慌てふためく姿は少しだけ可笑しかった。
「ずっとエミの隣に並びたかった。俺は不器用で意固地でマイペースで独りよがりだったから。そんな俺を変えてくれたエミの隣に並ぼうと必死だったんだ。
そして、ようやく結果を出せた。生徒会長になれたんだ、俺」
「……うん」
「……少しは成長したかな、俺」
俺は俯いた。恥ずかしさだとか照れだとか、そういう感情から俯いたのではなかった。ただ、悲しかった。もう少し早く成果を出せていれば、違った結末もあったのではと、そんな後悔をしてしまったのだ。
「……ツヨシは、凄いよ」
「ありがとう」
そう言って、涙が零れたから、俺は制服の裾でそれを拭った。
エミが困り顔で絞り出した答えを聞いたら、不思議と今朝からずっと悶々としていた気持ちが静まった。
救われた。
そう思った。
「俺、また転校することになったんだ」
だから。
満足したから。
俺は言った。
「……え?」
途端、エミの顔が苦痛に歪んだ。
「父さんの転勤。多分……近い内、エミともお別れだ」
「ち、ちょっと。ツヨシ?」
「ありがとう。俺の人生を彩ってくれて……。本当に、本当に……大好きだった」
堪えきれなくなって、俺は夜道を駆けた。
エミに駆ける言葉もわからず、そちらも振り返れず、ただ駆けて……家に着いたら、滴っていた涙を制服の裾でゴシゴシ拭った。
「……どうした、ツヨシ」
玄関にて、父が心配そうに俺の様子を見に来た。扉を閉める音が、相当大きかったのだろう。
「……なんでもないっ」
平静を装うように、俺は快活に微笑んでそう言った。
声は少しだけ震えていたが……玄関先に明かりがなかったから、多分泣いていたことには気付かないでくれていただろう。
「そうか?」
「うん」
「……そうか」
父は、これ以上の詮索が無駄と悟ったのか、話を変えるようにあっと手を叩いて続けた。
「そういえば、決まったか?」
「何が?」
「何がって、今朝の話だよ」
少しだけ胸がざわついた。
父が続けた。
「京都旅行、どこに行くかだよっ!」
「……ん?」
……京都『旅行』?
「父さん、京都旅行って何泊の予定だったっけ? 確か……三百六十五泊くらいだったと思ったけど、違った?」
「おいおい、それじゃあもう、旅行じゃなくて転勤だよ」
「そうだよね。俺達が京都に行くの、転勤だよね」
「はあ?」
「ん?」
話がトイレ不倫したお笑い芸人と児玉の芸風みたいにかみ合わない。一体、どういうことだと言うのだろう?
「まったく。京都に行くのは旅行だぞ。二泊三日。最近、家族水入らずで旅行する機会がめっきり減っただろう。で、父さん法定規則で有給をあと二日取得しないといけなくてな。どうせだからと休みを繋げたんだ。そして、こう思った。
そうだ、京都へ行こう」
「古いわ」
「とにかく、そういうわけで京都旅行を母さんと画策したわけだが……何かまずかったか?」
父さんの顔は、不器用で不細工で、心配げな顔をしていた。
まずいのかまずくないのか。
それは多分、いや多分でもなく……。
「……まずいです」
明日、エミになんて説明をしたらいいのだろう……?
今からとても気が重いし……ちゃんと言える気、まるでしない。ぴえん。
『転校することになった(勘違い)から、好きな彼女に本心を全て話そうと思う(本当)』




