嗚呼……ケツダイナマイトと相成りて
賑やかな曇り空は恵みの雨となり、頭の先から顔の表面を伝う雫を拒むように、乾いた暖簾を濡れた手で分け、馴染みの店へと入る。
自らはそのように感じたことは無いが、女将は私が訪れる度に「狭い店ですみません」と頭を下げては柔らかく笑みを浮かべる。
ポケットから摘まみ出すようにハンカチを取り出し、些か濡れ申した髪へあてがい雫をハンカチへと含ませた。
心地良い高温のおしぼりと、乾いたハンドタオル。そしてお茶。何も言わずとも無言と笑顔でそれらを優しく手渡してくる女将には、一生頭が上がる気がしなかった。
「いつもの。冷えてますよ?」
私が雨の匂いを含ませたハンドタオルを置いた頃合いを見計らい、女将が静かに声を掛けてくる。私はそれが無性に嬉しくて、間を置かずにそれをお願いをした。
グラスに浮かんだ桜の花弁が一つ。私の吐息でグラスの中央から奥へ動き出す。冷え切る前の、冷ややかなのどごしと、グラス越しに映る花弁の何とも言えない色合いが、雨に打たれた切なさを酒と共に奥の奥まで流れてゆく。
居間で飲むコップ酒ではこうはいくまい。狼狽える鈴虫の、壊れたキリギリスが叫き散らすような叫び声に似た癇癪は、聞くにも耐えず見るに切なく、其れ等に相反するこの場所は、まるで激流の川辺に窪んだ、生き物達の休憩所の様な物なのかもしれない。
道草三分、酒半升、愚痴彼方。
既に呂律が律でなくなる程に酔いしれても、女将の笑顔は画ほども変わらぬ美しさを保ったまま、私の話に耳を傾けてくれている。
──どうやら俺はこの女が好きらしい。
らしいとはこれ如何に。既に疑う余地も無く、この店に通うのは女将が此処に居るからではないか、何を疑う事がある。
あるとすればそれは罪悪感であろうか。
いやいや、壊れたキリギリスに何の罪を後ろめる必要があると言うのか。その身に蓄えた脂身は、越冬に何の得があると言うのだ。全く以て馬鹿馬鹿しいにも程がある。
桜の花弁は既に消えた。それが何時だと言うかは知らぬがきっと飲み込んだに違いない。グラスの風情は消え失せ、あるのは酒に映る自分だけであろう。
「どうぞ」と女将が鮮やかな漬物を小皿に盛って差し出した。
一口すら食べなくても、それが美味い物だと疑いの余地もなく、放り込んでは薄味の悦びに箸を置いた。
酒が進み、もう前後不覚の私に丁度良い味付け。つくづく俺はこの女が気に入った。
「……女将はいい人は居るのかい?」
女将は黙って左手の薬指を撫でた。まるでそこに指輪があるかのように…………。
酒の悪さからくるものだろうか。いやはや、最早どうでもよい事だ。それよりも早く去らねばなるまい。それが顔に出てしまう前に。
「釣りはいらん……」
行きはヨイヨイ、帰りはなんとやら。暖簾までの距離が永劫の如く遠くに近い。
開けて閉めて少し小走り。そして道端に躓く。もう自らの顔がどうなっていても構わない。そして出来ることなら明日には忘れていた方がいい。
あの様に気配りが出来る女に、男が居ない筈がない。
いや、居るからこその気配り上手なのだろう…………。
騙された…………騙されたのか。
誰が騙した…………女将か?
いや…………自分だろう。
起き上がり鞄を投げ捨て、壁に撒き散らし、戻した酒の不味さに顔をしかめ、壊れたアリはキリギリスが待つ巣穴へと帰るのだ。
夜が更けようと、その扉の鍵は開いており、壊れたキリギリスの習性が、優しさであることに今気付く。
何と情けなく、そして浅はかなアリであろうか。
静かに開け放った玄関で二度戻し、自らの靴を片方溢れさせた。それはもう明日の私が片付けるのだから、気にする事は無い。
居間に置かれた『おかえりなさい』のメモ用紙。魚屋の名前と番号が印字されたそのメモを見て嗚咽が走る。メモは酒の海へと消えた。
明日の私は大変な事になるだろう。だが、それを今の私は知るよしも無い。
寝室へと入り、壊れたキリギリスが腹を出して寝ているのを一目見て、再び嗚咽が走った。鏡台が海に沈んだ。
自らの布団へと潜り込み、布団の中で二度、便所にて三度。壊れたキリギリスの上にも一度。
明日は祝日。二人で遠くに出掛けるのも悪くない。
そうだ、たまには山へ行こうか。自然に囲まれ森林浴も良いじゃないか。
それじゃ、また明日。
──眼を閉じると直ぐに意識は無くなった。
ケツを爆破される位じゃ許されない
(*´д`*)