人参はフルーツ人参です。
「すごく美味しいよ」
鹿島が言うと、小梅が恥ずかしそうに笑った。
「良かった、あ、秋田、さんが……」
言いかけて口をつぐむ。
鹿島はその小梅の様子を見て、苦笑しながら、ジャガイモを箸で刺した。すると、ほろと崩れてしまう。
箸で掬うようにして取ると、口を近づけてジャガイモを入れる。
舌の上で転がすと、すうっと溶けていった。
丁寧に出した出汁と醤油の香りが口に広がり、鹿島はさらに空腹を覚えた。
炊きたての白ご飯。ほとんど使われてこなかった炊飯器の中で、茶碗によそってからの、残りの白米が眠っている。おかわりの予感を抱えながら、肉じゃが、白ご飯、と箸を進めていく。
(……花奈が作る食事とは、全然違う)
形の違う葉っぱを揃えたサラダ。薄く切ったトマトに、お気に入りのドレッシング。お取り寄せだと言っては、牡蠣のオイル漬けやら珍しいチーズやら、ワインに合うおつまみばかりを用意して、鹿島の帰りを待っている。
「要さん、ビーフシチューお好きでしょ?」
玄関で抱きつきながらそう言った日は、ああ、今日はまともなものが食べられる、と思った記憶がある。
「……ビーフシチュー、の匂いはしないようだけど……」
「そんなの当たり前でしょ。これから作るのだもの」
「腹、減って仕方がないんだけど」
「わかりました、すぐ用意しますね」
キッチンへと入って鍋に火をつける。冷蔵庫から飲み物を出すふりをして、そっと背後から覗くと、鍋の中には水が張ってあった。
(……今夜も取り寄せか、)
傍らに置いてある箱には、某有名ホテルのシェフ監修の文字。
(大同と飲みに行くと言って、外食してくれば良かった)
花奈と結婚すれば、こんな生活が一生続く。身の震える思いがした。
(それが、今は……)
鹿島は、次には肉じゃがの人参を摘んだ。ゆっくり噛みしめると、人参の甘みがじわっと口内を占めていく。
そして、もう一つ人参を口に入れて、その甘みを味わった。
味わっていただけなのに。
「鹿島さん、……ど、どうしたんですか?」
小梅の心配そうな声で、顔を上げる。
え、と思った途端、頬をなぞられた感覚があった。
涙が。
愕然と、箸を持つ手の甲に落ちる。
ぽたん、ぽたん。
「あ、あんまり、美味しくないですか」
小梅の唇が歪んでる。その表情が歪む前に、鹿島は言った。
「いや、違うんだ。ごめん……なんか、ごめん」
「む、無理して食べないでくださいね」
えへへ、と笑う小梅を見て、胸をぐいっと掴まれたような圧迫感を感じた。
鹿島は自分の頬を、その濡れた甲でぐいっと拭った。
「ちょ、っと、ごめん」
立ち上がり、洗面所へと入る。
鏡を見ると、うわ、俺、マジで泣いてんのか、そう思って、鹿島は水道の蛇口をひねり、手で受けた水を勢いよく顔に浴びせかけた。
✳︎✳︎✳︎
(……口に合わないのかも)
私は肉じゃがの豚肉を口に入れた。
秋田さん直伝の料理なのだから、不味いなどということは無いはずだ。それに、自分の味覚がおかしくないなら、この肉じゃがは本当に美味しいはずなのだ。
けれど。
鹿島さんは、大企業の社長さんで大金持ち(どれくらいのお金持ちかはよくわからないが)だから、美味しいものをたくさん食べているし、高級なものばかりを口にしているのだろう。
(私みたいに、安い舌じゃない……よね)
鹿島さんと、こうして恋人同士になる前に連れていってもらったお店は、実際に高級料理店ばかりだった。出てくる料理は、目が飛び出るほど値段の高いものだったし、味も上品で美味しいものばかりだ。
(私も何度か食べさせてもらったけど、全然レベルが違うかったもんね)
豚肉をもぐもぐと咀嚼し、ごくっと飲み込む。
(不味いってわけじゃないんだろうけど、きっと庶民の味なんだろうな)
人参を口に入れる。この人参はフルーツ人参といって、普通の人参よりは甘みが多く、最近人気の野菜だからと言って、スーパーモリタの店長が試しに仕入れたものを安く譲ってもらったものだ。
(甘、)
すると鹿島さんがタオルで顔を半分だけ覆いながら、洗面所から出てきた。
私は慌てて立ち上がると、精一杯の笑顔で言った。
「大丈夫ですか? す、すみません、何か、苦手なものがあったんですか?」
肉じゃがが出来上がった時の秋田さんの笑顔を思い出すと、到底不味かったですか? とは訊けなかった。
「く、口に合わないなら、無理には、」
その時、鹿島さんが私を勢いよく抱き締めた。
「小梅ちゃん、ごめん。ほんと、ごめん」
小さな声で、けれど意思のこもったその声で、何度も謝罪する。
ずずっと鼻をすする度に、鹿島さんの身体が揺れて、私は居たたまれない気持ちになった。大きな背中に腕を回して、さする。
「大丈夫ですよ、鹿島さん。大丈夫です、大丈夫……」
私はそのまま背中をさすり続けて、小さな子どもをあやすように、抱き締めた。