肉じゃがには豚肉です。
「うわあ、美味しそう。これ、もういいかなあ」
火にかけた鍋の前で、うろうろとしていると、後ろから秋田さんの声がして、私は振り向いた。
「小梅、一度火から下ろすんだ。冷める時に味が染みていくから、後でもう一度温めるんだぞ」
「なるほど了解です」
スイッチを押して火を止める。持ってきた新聞紙に鍋ごと包み、そしてさらにブランケットをぐるぐる巻きにすると、私は両手に抱えた。
「秋田さん、ありがとうございます」
「ああ、いいぞ。それにいつでも遊びに来いな。店長も多摩さんも喜ぶし……しかし、お前が病院の看護師さんとはねえ、世も末だわ」
「ちょ、どう言う意味ですか、それ」
「病院に行ったら、お前にお注射されるのかと思うと、マジでぞっとするな」
「いやいや、注射うまいですから。お手のもんですから」
何重にも巻いてはいるが、やはりお鍋が温かく、私は抱え直してその温度を楽しんだ。
「ちゃんとお世話しますから、安心して入院しにきてくださいね」
「うそだ、ぜってえ、虐めるだろ」
「人聞きの悪い」
ガチャと蓋がずれた音がした。
「おい、鍋、落っことすなよ」
よいしょと直して、秋田さんにお礼を言った。
「作り方教えてくれて、ありがとうございます」
「おう、鹿島さん、喜んでくれるといいな」
「絶対です。だって、秋田さんのレシピですから」
このやろっと手で頭をぐいっと押されながら、私はモリタを出た。
道を挟んだ路肩に黒塗りの高級車が見える。キョロキョロと車が来ないのを見渡して確認してから、私は大通りを渡った。
車から鹿島さんが降りてくる。
「鹿島さん、こんにちは」
「ん、こんにちは」
鹿島さんが後部座席のドアを開けてくれる。私は鍋を抱えたまま、車に乗り込んだ。鹿島さんも運転席へと乗る。
「今日はお仕事お休みしてもらっちゃって、ほんとすみません」
「いや、良いんだ。いつもちゃんと働いているのだから、たまには休んだってバチは当たらない。それより、」
車が動く。
「誕生日おめでとう」
鹿島さんにそう言われて、くすぐったい気持ちになる。
(あ、これが隼人さんが言ってたやつだ)
メープルのシェフ隼人さんに、結婚ってどんな感じなのかを訊いたことがあった。
『あったけえし、くすぐったい』
そう言ってたな。
「……ありがとうございます」
抱えている鍋の温度が胸に染みてきて、温かい気持ちにもなる。
(一度は諦めたけれど……これが、恋なんだなあ)
鹿島さんが運転する車が、鹿島さんの家へと向かう。
ドキドキ心臓が、爆発しそうだけど、鹿島さんは無言で運転中。私が何か、喋らなきゃ。
「そういえば、私の誕生日、覚えてくれてたんですね」
「もちろんだよ」
「自分でも忘れそうになってたのに」
「ふは、そうなんだ」
「鹿島さんは、8月23日でしたね」
「ピンポン」
「何か、欲しいものはありますか?」
あはは、と声を上げて笑う。
「小梅ちゃん、俺の誕生日は、まだずっと先だよ」
そう言われて、へへへと笑うと、私はそれでも続けた。
「鹿島さんの欲しいもの、ずっと考えたり想像したりするのを楽しみにしたいんですよ」
「え、なに? どういうこと?」
鹿島さんが笑いを含みながら、訊き返してくる。
「例えば、何かありませんか?」
「うーん、そうだなあ。小梅ちゃんに貰えるものなら何でも嬉しいだろうけど……自分のものというより、仕事中でも小梅ちゃんを側に感じられるものが欲しい」
あわわわこの王子様め、となりながら、私は苦笑した。
「そ、そ、そうですか。えっと、じゃあお仕事で使う文房具にしようかな、とか、机の上に置いてもらうぬいぐるみにしようかな、とか……そういうのを考えるのが楽しみなんですよ」
「そっか、確かにそうだね。俺も、プレゼント何にするか迷ったけど、楽しかったよ」
「えっ、プレゼントがあるんですか?」
「そんな高いものじゃないから、安心して」
ハンドルをぐるりと回す、その大きな手。あの手に頬を包まれたら、幸せなんだろうな、って思う。
「ありがとうございます。何をくださるんですか?」
ははっと笑って、ハンドルを戻す。
「内緒だよ」
「ふふ、楽しみです」
本当に楽しみで仕方がない。
前は鹿島さんがうちに来てくれたわけだけど、今度は私が鹿島さんの家へと遊びに行く。
(本物の恋人同士みたい)
まだ信じられない現実。夢のような。
鹿島さんと結婚だなんてことは思っていないけど、少しなら。こうして会ったり話したり食事したりなら。別に良いよね。大丈夫。
(好きだって言ってもらえるだけでも、奇跡だ)
ほくほくと心が。この抱えている肉じゃがのように、温かかった。