二話
連敗続きで眠りが浅かったからだろうか、俺はその夜、夢の世界へと誘われていた。
どこまで歩いても何もなく、ただ暗闇に包まれた、無の世界。このお先真っ暗な世界は、今の俺を象徴しているかのようだった。
俺は歩き疲れて、膝をついてうずくまった。本当に先が見えない世界というのはここまで辛いのかと、今にも泣きたい顔で途方に暮れる。
「随分と参ってしまっているようだね?」
突然背後から、男からか女からかもわからない声をかけられ、身の毛がよだつ思いをして振り返る。しかしそこには誰もおらず、前後左右、そして上下と隈なく辺りを見回すが、視界には黒く塗られた世界しか映らない。
聞き間違いかと思って再び俯いたところ、先程の中性的な声が俺に語りかけてくる。
「すまない。ちょっと脅かしすぎてしまった……これで見えるようになるかな?」
喋り終えると同時に指をパチンと鳴らす音が響き、一瞬のうちに黒から白へとオセロでひっくり返したかのような、見事に白の世界へと転じた光景が広がる。
そして目の前には、椅子に腰掛ける少年の姿。髪を染めたような不自然な色ではなく、艶のある青い髪をしている。こんな髪の色、俺は今まで見たことがない。身なりはネクタイこそしていないものの、スーツのようなものを着ていて、彼の細身をより強調させていた。
「色々疑問に思うことはあるだろうけど、とりあえず座ってよ」
彼はニッコリと笑って、俺を手招きした。それに従ってゆっくりと立ち上がると、テーブルを挟んだ前にある椅子へと腰掛けた。
「実はこっそりキミの行動を監視していたんだ……昨日は随分と辛そうだったね」
苦笑いを浮かべて、俺に同情するかのようなセリフを少年は吐いた。この少年の顔立ちは整っている――いや、整いすぎているという表現が適切かもしれない。それほどに美少年であり、百人中百人――老若男女問わず――美少年だと答えてしまうようなそんな美貌の持ち主だった。
「その前に、お前は誰だ」
俺はその美少年の目を見て迫った。
尼子という姓で気づいた人もいるかもしれないが、俺は戦国大名であったあの尼子氏の末裔だ。家系図も残っており、現実に戻ればそれが間違っていないことを証明できる。そんな家柄なので、名乗らず会話してくる奴には毎回名前を尋ねてきた。いくら夢の世界であっても、そこは曲げてはいけない。
「失礼。まず名前を教えるのが先だった……ボクはフラット。ボクの世界へようこそ、セナくん」
「ボクの世界……? ここは夢じゃないのか?」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える」
フラットは空中から出てきたティーカップをテーブルの上に置くと、その持ち手を無駄のない動きで掴み、口へと運んだ。俺は目の前のティーカップに目を落とすと、そこには紅茶と思われる茶色の液体が入っている。そこからは、俺が今まで嗅いだことのないような、芳醇な香りが立ち込めてきた。
「ボクにとっては夢じゃないし、そもそもボクが創り上げたものだから。でもね、キミたちみたいな人からしたら、ここへ呼ばれたら夢の世界と答えるしかないだろう? ――だから、そう答えたんだ」
「つまり、ここは俺にとってはただの夢じゃなくて……異世界ってことか?」
近頃流行っている異世界転生ものの小説――それらを俺は読まないが、一也が好きで休み時間にスマホをいじって読んでいる。
「政那、この小説面白いから読んで! ……やっぱ主人公は難があっても結局は最強ってパターンが一番だと思うんだよね!」
などと、ゴッドサモナーズをプレイ中の時より数段高いテンションで勧めてくるのが普段の一也だ。近年はよくそのような系統の小説がラノベになり、それがアニメになり、身近な存在になっているのは確かだろう。他のクラスメートたちもそんな話をちらほらとしている。だから、存在は知っているが、あくまで創作の話。まさか俺がそんな異世界に飛び込むことになるとは、予想だにしていなかった。
そんな風に一也が喜々として勧めてくる様を思い出しながら俺が尋ねると、フラットはゆっくりと頷いた。
「夢ではないよ――そうか、今は異世界というコトバが流行っているんだったね。いかにも、ここも立派な異世界ということになる」
「俺が知っている異世界というのは、もっと華やかで……ゲームの世界のように、街があって、人が住んでいて、モンスターがいて、ダンジョンがあって――そんな世界だと思うんだけど」
「ああ、そうだよ。ここはあくまでボクだけの世界――言い換えるなら、世界と世界に挟まれた『狭間の世界』――ということになるかな?」
彼はティーカップを置き、俺の目に語りかけてくる。真摯に説明してくる様は、どこか一也に似ていた。
「それだと、俺が知っている現実世界、そしてフラットが創り上げたこの狭間の世界、そしてもう一つあると言いたげだな?」
俺がフラットの発言から推察すると、彼の口からは笑い声が漏れた。
「アハハ……やはりキミは頭がいい。その通り、実はもう一つ『世界』があるんだ。そこの住人には――ジェニュインと呼ばれている異世界がね」
「……ジェニュイン」
俺は復唱しつつ、英語の教科書に記載されていた単語を思い出した。
ジェニュイン――確かスペルはgenuineだったはずだが、その意味は「本物」みたいな意味だったと思う。俺の世界の英単語と直接関係があるかはわからないが、無関係ではなさそうだという結論に至った。
「実は、キミをここに呼んだのは他でもない、そのジェニュインに行ってみないかというお誘いなんだよ」
「俺が……異世界に?」
ゆっくりと、噛みしめるかのように言葉を紡ぐと、フラットは微笑を浮かべた。
「そうだ。キミのことは興味深い人材だと思って、しばらく前から様子を窺っていたんだ。――キミは、『ゴッドサモナーズ』というゲームをプレイしているだろう?」
「ああ……」
「そのジェニュインには、そのゴッドサモナーズを現実化したかのような競技があってね……キミたちの世界で言うところの、スポーツみたいなものなんだけど」
「――――」
「そこでは、その競技で世界一になった者が英雄になれる。国から一生の衣食住は保証されるし、結婚相手も選び放題――というか、向こうから言い寄ってくるだろうね。そんなわけで、世界一になれば色々と特典もあるんだ」
最近はゴッドサモナーズのようなMOBAのゲーム、格闘ゲーム、ファーストパーソン・シューティングゲーム(FPS)などを総合してイースポーツと呼ばれ、競技化されているが、まだまだ日本では認知されておらず、マイナー競技の一つに過ぎない。
しかし、イースポーツの強豪国の中には、国技として認められ、バラエティー番組へ選手が出演、競技の裏話を話すなど、日本であれば野球やサッカーなどの、メジャーなスポーツ選手と同待遇を受けているところもある。
ジェニュインがどんなところかいまいち把握できていないが、彼の言うことが正しければ、国民栄誉賞を受賞する人くらいの生活は望めるかもしれない。
「キミは強い。ボクが保証しよう。今のキミは、迷える子羊なだけなんだ。キミがゴッドサモナーズにおいて、伸び悩んでいる理由は周りにあると考えているようだけど、ボクもそう思う」
フラットはテーブルの上で手を組み、顔をこちらに近づけてきた。
沙羅からは俺のミスだと責められ、一也からも、要約すれば「視野が狭いお前が悪い」と言われ、ランク戦で会った野良の味方も「俺たちの指示を無視するから負けるんだ」と主張し、いつだって本当の意味で理解してくれる味方はいなかった。
だが、フラットは俺のことを理解してくれている。もちろん、勝手に監視していて同情されるのも何か気持ち悪いが、彼の目が嘘を言ってるようには思えない、静かな熱意を感じた。
「つまり、何が言いたい?」
「キミには、最強になってほしい。ジェニュインでなら、それも叶えられる。――もし、行く気があるのなら、この紙に名前を書いてくれるだけでいい」
そう言って、フラットは右手で払うような動作をすると、ティーカップはどこかへ消え失せ、その代わりに一枚の白紙と、一本のペンが出てきた。俺たちの世界で表現するなら、これは魔法だ。このフラットという欠点のなさそうな男にかかれば、本当に異世界へと導くことができるのかもしれないと思わせる、そんな超常的な存在に見えた。
「……ちょっと怪しいな」
素直に怪訝な表情を見せると、フラットは苦笑いして、椅子にもたれかかる。
「怪しまれるのも無理はないね……急に出てきて、キミに合った世界があるからそこへ行かないか、なんて虫が良すぎる話だし、新手の詐欺かと疑うのも当然だよ」
「じゃあ……なんで俺なんだ。なんで俺が選ばれた? ――はっきり言って、一也のほうが即戦力になると思うけど」
「実はね、彼には断られたんだよ」
「……断られた?」
「数日前、キミと同じように呼び出したんだ。ジェニュインに興味を示してくれたところまでは良かったんだけど……『今の生活が気に入ってるから』と言われてしまって」
フラットは残念そうに首を振って、お手上げのポーズを取った。
俺はあいつが異世界に興味があるのを誰よりも理解しているから、そんな理由で断るのは理解に苦しむ。何か別の理由がありそうだったが、今の俺に一也のことを深く考える余裕はない。
「誤解のないように言っておくと、カズヤくんの後にセナくんを勧誘するつもりでいたから、彼に断られたためキミを誘ったとか、そんなことは決してないことを信じてほしい」
真剣な眼差しで、フラットはこちらの顔をじっと見つめる。相変わらず「嘘は言っていない」と言いたげなポーカーフェイスで、フラットの真意を読みづらい。そのため、こちらから質問をぶつけてみることにした。
「もし、俺がジェニュインに行った場合、現実には戻れないのか?」
「そうだね……キミが為すべきことを為せば、現実に戻れると思うよ」
「為すべきこととは?」
「すまないが、そこは守秘事項なので今は話すことができない。でも、キミなら必ず達成できることだ」
「詳細は語ってくれないんだな」
がっかりして俺が溜息を吐くと、フラットは頭を下げた。
「本当にごめん……今は言えないんだ。しかし、キミの活動はなるべく支援したいと思っている。もし、キミが挫折しそうになったら、手を差し伸べよう。――多分、ボクの助けはいらないと思うけどね」
「そっか……とりあえず俺がやるべきことを教えられないなら、しばらくは好きにしていいってことだよな?」
「もちろんだよ」
先程の申し訳なさそうな表情から一変して、フラットは嬉しそうに微笑む。
俺は軽く一呼吸し、少し身を乗り出してから言った。
「……いいだろう。この紙には、普通に漢字でサインすればいいのか?」
「何でも構わない。アルファベット……だったかな? それでも問題はないよ」
念のためフラットに確認を取り、俺は万年筆のような見た目のペンを手に取った。
中学生の頃、俺はいつか有名になるんだと確信して、英語の筆記体でサインを書けるよう練習していた時期がある。ここ一年くらいは書いていなかったが、ようやく他人にお披露目する機会が来たかと思うと、悪い気持ちはしなかった。
少し慎重に書き、十秒ほどでサインを書き終わった。久しぶりにしては上手く書けたので、ニンマリしつつ、それをフラットに差し出す。すると、彼は立ち上がり、その紙を右手で持った。
「ありがとう。これで契約成立だ――さて、準備はいいかな?」
俺は頷きながら立ち上がると、彼は右手に持っていた紙を空中に飛ばした。それは一瞬のうちに炎に包まれると、灰も残さずに空気と一体化する。
それを見守った後、フラットは自由になった右手を差し出すと、俺も立ち上がって右手を差し出し、二人は固く握手を交わす――彼の手は、まるで氷のように冷たかった。
「ようこそ、ジェニュインへ。世界も、そしてボクも……セナくんを歓迎するよ」
彼の白い肌に喜色がにじみ出たのを最後に、俺の意識は暗闇へと落ちていった。