第*話 無縁仏
酒場とは、あらゆる鬱屈、あらゆる共感、そしてあらゆる情報が集まる場所である。
夜の帳を涼し気な風が撫でつける夏の日、今宵もと一同は集っていた。
交わされるのは幕間の雑談、他愛も無い小突き合い。
男は肩を組んで笑い、女は痴話に泣いていた。
「おうダンナ! 暇なら付き合えやせっかくだしよ!」
ある一幕に登場したその気さくな言葉は、カウンターの端で溶けた氷を回しているつまらなそうな男に向けられていた。
愉快ついでに知らぬ隣の客に声をかけた男は、酔い眼をこすって相手の様子をよくよく確認する。
「おっと……こりゃあすまねえ」
顔を覗き込んだうえでの反応としては失礼に値するだろう。
しかし、無精ひげの中年の男は口元で笑って見せ、何も咎めはしなかった。
それをきっかけに酒が無いことに気付き、彼は相席の男にまた今度呑もうと言い残して去る。
酒場の狂騒から、ひとつの無音が消えた。
夏の夜空に繰り出した男は、トボトボと静かな清涼の中をゆく。
夜虫が鳴くこの田舎町は、昨今の空地を巡った政争にはほど遠い沿岸部にあった。
まったくもって平穏な、まるで火の音のしない安地。
しかしどこか、物足りなくもあった。
ここは彼にとってあまりに俗らしく、穏やかであった。
「お兄さんお兄さん!」
声をかける者があった。
男は人柄上、それがどんな無粋な相談であっても立ち止まってしまう。
「結構かっこいいじゃない。酔い覚ましにどーお?」
艶めかしいリップサービスが耳元にすり寄った。
「すまない。もう帰るところなんだ」
道行く落伍者にしては珍しい誠実な返答に、ドレス姿の女は興味を示した。
「けっこう訛ってるねぇ~。何処のお人?」
可愛く鳴いて絡んでくる女を振り払うことはせず、そっと諌めるような身振りでいなす。
「聞かない方がいい。またいつか」
すり抜けるように立ち去った背中に、なまじ取り合われただけに惜しそうな表情が縋る。
堕すところまで落ちられないのが、彼の常であった。
しかし一部始終を見ていた者にとっては、それらは確信のための重要な手がかりとなる。
「あんた」
再三にわたって声をかけられれば、誰しもそれが前例に基づいたものだろうと考えるはずだ。
「ああすまない。今日は――」
みなまで言う直前、男は立ち止まって気配に集中した。
振り返ると、そこに居る何かが異様な空気を醸しているのがわかる。
「やっぱりそうだ。ずいぶんと酒癖の良いことだね」
比較的若い女の声だ。
言動から察するに、どうやら先ほどの酒場から付けて来たらしい。
男の脳裏に、わずかに、鮮明に過るものがあった。
「イオニアス・ベンソン。あたしと一緒に来てもらう」
高い声は、はっきりとその名を口にした。
男は黒メガネ越しにもわかるように、苦い表情をする。
「断る。君が誰だか知らないが、俺にできる事は何もない」
すぐに消えようとする男だったが、鷹が鳴くような声がそれを引き留める。
「ある!」
無精ひげの荒い口元が引き締まり、そしてゆっくりと振り返った。
「あたしたち――魔女にはね」
まぶたの裏に、懐かしくも忌まわしい風景が映った。
男には、どうしてもその言葉が忘れられなかった。
静寂に巣食う不穏が、再び足音を立て始める。