魔女は復讐戦争で破滅する
顎を撫でた液体のような感触。
それはすぐに明確な違和感となって彼女を襲った。
「なんだ……これは……」
拭った、いや、ぬぐい切れず垂れたそれは、鮮明な赤だった。
直後、少女は激しく吐血した。
震える腕で胸元を押さえる。
しかし、異変は外部にも現出し始めた。
次々に皮膚が引き裂け、もはや毒すら帯びた彼女の血液が噴出する。
まるで見えない誰かに激しく斬りつけられているかのように、不可解な裂傷が彼女を殺そうとした。
何度も何度も斬りつけられ、内臓は破壊され、死が目前まで迫り己を脅迫する。
もがき苦しんだ末、少女は何が起こったのかを察した。
答えは、こちらを見つめている死骸の翡翠色の瞳にあった。
その腹の掻き切り傷は、彼女にもつけられている。
「おのれええええ!!!!」
悲劇的な苦痛に再び歪んだ少女の顔は、それでもなお前進することを望んだ。
よろよろと、大量の血液を吐きながら、逃げるように扉に向かう。
王の魔法は、報いだったのだ。
それを今更知ったところで、彼女にはどうしようもない。
ただ苦痛と死から逃れようと、逃げようと、転がりながらどこかを目指す。
赤い絨毯が、贅沢にも更に鮮やかに染め上げられる。
うめき声が憎悪を露わにし、床を殴った。
後悔しているのだろうか。
彼女はようやく死に晒されて、死神に迫られて、それでやっと悔いる事ができているのだろうか。
這いずる狂気はすでに鎮火し、今はだた恐怖に締め上げられているようにしか見えない。
少女は、もうろうとし始めた意識の中で苦しんだ。
「畜生……ちくしょう……!!」
金の髪に血まみれの手が触れる。
痛みで掻き毟った顔は、憐れ以外のなにものでもない。
幕は引く。
絶対的で逃れようのない事実、死の苦痛によって彼女の道は途絶する。
たった一度のミスが、王を過剰に痛めつけてしまったことが決着をつけたのではない。
彼女がかなぐり捨てたものが、地獄に追いやったものが、その腕が、アウレリアの首に届いたのだ。
苦しい。
苦しい。
アリーは、死がどういうものなのかを実感した。
死ぬという事が、これまで己のための軽々しい経過点でしかなかったその事象が、他人に強要し続けてきた終焉がどれほどの重みを持つのかを知った。
そしてとうとう、諦めたのだろう。
精神力だけでようやく這いずったその数メートルに、ばら撒かれた血の上に伏した。
叩き潰された猫のような残骸は、金色の毛並みを汚しに汚して呟いた。
「誰か――」
手を伸ばす。
誰も居ない空間に、自分を優しく握る手を求めて手を伸ばす。
「誰か――!」
このままこと切れるものと思われていたアリーは、ここで再び全身に力を込めた。
絨毯を引きちぎらんばかりに握りしめて。
ぼろぼろと血液を落としながら、立ち上がる。
「カミラ――ドロノフ――」
歩けているのは奇跡と言える。
失血で顔は真っ青に成り果て、腹を押さえる指が弱々しく震える。
瞳はすでに霞んで、ほとんど見えてはいないはずだ。
「エド――マルク――!」
扉の方へ。
あと一歩。
あと一歩先に行けば。
「いないのか――そこに――いるんだろ――」
誰かが救ってくれる。
そのはずだ。
「エルザ――フーゴ――マーシャ――ブランク――」
逆流する血で喉が潰れ、ほとんど何を言っているのかわからない。
「だれか――だれ――」
とうとうだ。
とうとう、彼女の身体から力が抜けた。
足がもつれ、正面に倒れ込む。
小さな身体が、まるで巨像のようにゆっくりと転倒した。
しかし、頭蓋が床を打つ音は響かなかった。
アリーは気付くと抱きとめられていた。
懐かしくすら感じる。
いつも一緒に居た、慣れ親しんだ匂いだ。
脳裏に、あの日の朝焼けが浮かんだ。
「アリー様」
久しぶりにその名を呼んだ声は、彼女が欲していたもの。
子どものように胸に落ちる少女を抱いたのは、カミラであった。
顔にはやけどの跡が。
服はぼろぼろで、傷だらけの満身創痍。あの衝撃を辛うじてやり過ごしたといった様子の彼女もまた、死にかけだった。
それでもここへ来た。
並の意志では、決意では諦めが付いてしまうだろうに。
結局、最後まで残ったのは、彼女のもとに寄り添ったのは、この少女だった。
「アリー様――」
臓器すら零れ落ちそうな血まみれの主を抱きしめて、カミラは呼んだ。
アリーは、ああ、ああと、縋るようなか細い声をあげる。
途方も無く長い、ようやく認識したその孤独を、いっせいに取り払われたようだ。
自分を抱きしめてくれる人がいる。
その事にこれほどまでに感謝したことは、恐らくないだろう。
アリーのもはや動かない腕は、カミラの抱擁に応じた。
肉を引き裂く音に目覚めたのは、アリーの混濁した意識だった。
胸のあたりに、冷たいものを感じる。
もはや自分からは噴出しないはずの温かい感触が、再び蘇る。
それは、カミラの血だった。
何がおきたのかわからない。そう感じているのを汲み取れるだけの反応は、その余力は残されていたようだ。
アリーの瞼が震えた。
加害者の、主君を抱く力がぎゅっと強まる。
二人は、そのまま倒れ込んだ。
抱き合うままに落ちた少女たちは、一本の剣に貫かれていた。
アリーは、なぜだ、と問うことはしない。その力も無い。
そしてわかっていた。
ああ、これが相応しい結末なのだと。
共に、死ぬのだと。
彼女の瞳から溢れ出た悲しみ。
熱い、灼熱の炎を帯びた液体は、美しく歪みのほどけた鼻先を伝う。
その涙の道筋だけは他の何にも阻害される事はなく、純粋な軌道を描いて落ちていった。
最も愛した家族の決意が、彼女の地獄を終わらせる。
灰にしてしまったこの世界で、何もかもを拒んでしまったこの世界で、アリーは最期に、二人で死んだ。
何度裏切られても。何度振り払われても。家族という絆だけは、たったひとつ残された。
道を連れて逝く二人が、あくる朝を迎えることはない。
同時に消えたその光が、次の陽を見ることはない。
翡翠の視線は、ようやく閉じた。
雪がひとつ、破れた屋根から舞い落ちる。