第72話 唾棄
アリーは、とうとう仰向けに倒された。
最後の渾身の一撃が、脾臓を衝いたからだ。
王は切れる息を押さえて、汗をぬぐう。
決着した。
「お前は……もうやり直せはしない」
戦い、いや、虐待のなかで悟ったのだろう。
もうこれ以上は、と。
青年はとぼとぼと近づく。
「心安らかに眠ることも」
そこまで言った時、王はぴたりと止まった。
まだ、少女が立ち上がったのだ。
「――せめて。ならばせめて!!」
ようやく、ようやく決まった腹で、青年の最後の拳が放たれる。
どこか力の入りきらない様子はない。
まさにイカヅチの如き鋭さで、決定打は繰り出された。
しかし、次の一撃はかわされる。
アリーはふらりと傾いただけに見えて、正確に、最小限に、敵の拳を見切って避けた。
そしてあまりに鋭い蹴りを持ってそれに応じた。
飛ばされた王は、混乱することなく即座に姿勢を立て直すが、風に乗った少女の足はあまりにも速く、迅雷に逃げ場を封じられた挙句にもう一撃、そして致命的なダメージを受けてしまった。
内臓を撃たれた青年は、再び巻き起こった小嵐の迫る圧に眉をひそめる。
「魔法もロクに使えなくなった薄汚れた裏切り者の血が、貴様に死ねと囁いているぞ」
アリーは実に愉快そうに、虫けらをなぶるかのようにうずくまった王を見下した。
彼女は、肉体戦のみで超常現象を現わさない王を劣等となじる。
青年は苦痛に歪んだ口で問う。
「まだ――」
まだ動けるのか、あるいはまだ余力を残していたのかと聞きたかったのだろう。
しかし、電撃の伴った打撃はあまりに強かった。
「もう時間だ」
その返答が聞こえたのは、真後ろからだった。
王は蹴り飛ばされ、かまいたちに切り裂き揚げられる。
地に落ちた後は、堂々と歩いてきたアリーに掴まれ、殴られた。
それでもなお、立ち向かう姿勢をとる青年。
嵐のような反撃も、二度いなされ、更にはじき返された。
青年は、敵を打った時の手ごたえの無さは自分の無意識の手加減によるものだと思っていた。
しかし、実際には違った。
ここまで正気を雨風に晒した後でさえ、全てはアリーの計算上にあった。
攻撃を流すように受ける事でダメージを最小限に抑え、同時に目を慣らし、そして敵が疲れるのを待つ。
アリーとカルロスには、戦場を駆け抜けて来たか否か、体力の大差が存在していたのだ。
だが、自覚外の事実がもうひとつある。
彼女の魔女の力は、今絶頂に在る。
憎しみで昇華する。仇敵の言葉通りだった。
風が巻き起こり、やがて雷となる。
アリーは今まさに、魔女の才を発揮していた。
王は動揺を最小限にとどめ、なおも反撃に出ようとするが、蹴りならばつま先の離れる前に、突きならば肩の動く前に、悉くアリーに入り込まれ切り刻まれた。
少女は、際限なく強くなっている。
魔女の力がこれほどまでに強大に膨れ上がった例は、史上稀か、最後であろう。
開き続ける戦闘能力の差に満足した少女は、彼に近付き、あることを告げる。
それは、自らが受けた仕打ちを全くもってそのまま返すかのような、苛烈な復讐の一幕だった。
「妹が待っている。もう死ねよ」
打たれるままだった王の曇りかけた瞳の焦点が、衝撃から現世に戻る。
その瞬間、唸り声と共に青年はアリーを薙ぎ払った。
よろめきながら、彼は肩で息をする。
それを、少女は堪えきれない笑いと共に眺めていた。
「わかったでしょ? 私の気持ち」
くくく、とあふれ出す笑い声に腹を抱えて、そのうち高らかに大笑いする。
あまりにも幸せそうな、また苦しそうな高笑いに過呼吸気味になりながら、アリーは敵をはやし立てた。
「ざまぁみたかよえぇ!? 貴様らが私にしたことなんだよ!! 私から奪ったものをよぉ!! てめえらから根こそぎ消し飛ばしてやったんだ!!」
勢いづいた罵声を浴びせられ、愛する妹の死を知らされ、王は激情するものかと思われた。
だが、アリーの確認した彼の表情は、無だった。
無の上を、涙が伝っていた。
そしてだた、翡翠色の瞳が金色の髪越しに覗いている。
彼のその様は、予想もしなかった何かを訴えた。
アリーは舌打ちをする。
「なんだ――殺し甲斐がない」
ガン、と床を踏みつける。
「もう終わりだ」
癇癪をおこした子供のように、何度も、何度も、何度も何度も何度も地面を踏みつける。
「終わりだ終わりだ終わりだ!! 全部終わりにしてやる!!!」
アリーは、見たことも無い魔法を表した。
その指先から、螺旋状に渦巻いた風の刃を伸ばしたのだ。
そしてそれは電流を纏い、戦闘で歪んだ天井から零れた破片を瞬時に塵に変えてしまった。
無造作に荒れ狂った竜巻とは性質が違う。
それはまるで、洗練されきった彼女の内面を映し出しているようだった。
青年は、敵をじっと見たまま動かない。
そのしなやかな肌から、水滴が落とされた。
激震するアリーの絶叫と共に、光が地面をかき鳴らす。
吠えたてる咆哮が、王間を駆け抜ける。
最後だった。
最後の黒点を、その一滴をぬぐえば、そうしさえすれば、彼女は救われる。
そう信じた、濁った唸りだった。
終わらせたかった。
重音と共に切り刻まれ、弾きあげられる青年。
脈の悉くが断ち切られ、死は視覚的実体となって少女の目に映った。
雑巾の落ちる音にも似た最後。
壁にもたれるようにして途切れた命は、開いた瞳で何かを見つめていた。
薙ぎ払った。
ついに、すべてを薙ぎ払った少女は、しばらくの間呆然とした。
無音がやけに騒がしい。
ここで目をつぶれば、まるで宇宙に浮かんでいるかのような虚無感を体感するだろう。
結果は結果として現出し、それが意味するものは何もなかった。
アリーは、ひたすらに佇んだ。
少女が自分の中で湧きたつ、過熱した歓喜の沸騰を感じた時、次に出たのは笑いだった。
けたたましく、叫ぶような笑いだった。
天井を突き抜けるような狂った罵声は、たった一人、何の生命も存在しないこの城に深く突き刺さった。
笑い、狂い、笑った。
どうしようもないくらいに可笑しくて、その大声で幸せとは程遠い位置にあるものを叩き潰さんとした。
人間の言語では表せない破壊された心。
それを知るためには、今の彼女を見ればいい。
憐れな幸福を目すればいい。
以外、方法はない。
誰もいない。
ただ存在しているだけのこの世界で、アリーは空に助けを求めていた。
狂騒の末に、その次に彼女が感じたもの。
それは、自分の顎を伝う温かな何かだった。