第69話 吹き荒れる暴風
少女は、まさに目にも止まらないと言うべきスピードを演出した。
恐らくその残像を捉えられるのは、同じ狂酔の中に在る異常者のみであろう。
砂塵巻き起こり、早馬のいななきが如き金属音が走る。アリーが床を掻き切った音だ。
空を切った鋼は、獲物を仕留められなかった。その胴には、家族だったものを引き千切った血痕が走っている。
跳んでかわしたランペルツを映した目は、強い集中力と強靭な執着心を抱いていた。
「その程度かゼルマ!!」
頬を切る喚き声が降る。
しかし血走った目の猛獣は、低姿勢のまま絨毯の床を踏みつぶし、一気に敵の真下まで駆けた。
凄まじい速さで下方を奪われたランペルツは、空中で軌道を修正するので精いっぱいだ。
次の瞬間、静寂を拒絶する金切り声と共に巨大な嵐が立ちのぼった。
エントランスの構造物はめちゃくちゃになり、ランペルツも劈き風にさらわれた。
小男はそこに、ひとつの発見をする。
風圧以外に死んだ身体を痛めつけるものがあったのだ。
それは、雷だった。
小台風の中心地は、高らかに笑っていた。
地面に叩き落とされた小男の身体は、ズタボロに切り裂かれていた。また、焼け付いた痕もある。
しかし、平然とした死に顔で、蒼白は笑む。
「魅せてくれるねぇ」
アリーはこの上ない喜びを湛えた表情で、敵を射抜かんばかりに睨みつけている。
「魔法は憎しみで昇華する……魔女とは、我々とは、狂気を受け入れた者のみが至る極地」
ランペルツは、喜悦に富んだ、枯れた声で鳴きながらゆっくりと立ち上がる。
アリーはそれを見つめるばかりだ。
「お前は此処に立つに相応しい力を手に入れた――それに引き換えあたしは身体を損じてこのザマよ」
よろめきながら、まるで痛みなど感じていないように引き笑いを奏でる。
アリーは大剣を振り被り、もう一打加えて呻かせてやろうと構える。
しかし、意表を衝く攻撃とは、常に背後から迫るものだ。
「差は開いた。だが」
アリーが気付いた時には、既にそれは奔っていた。
幾重の波となって押し寄せる樹木の渦。
愛しいものに手を伸ばすように寄せる木の根は、アリーを取り逃したのちに次々と床に突き刺さった。
着地した少女が攻撃の発生源に見たものは、地を這う家族の上体。悲しげにも見える目をした、憐れな死骸だった。
薄気味悪い笑いをあげる小男を無視し、アリーは雷風を掻き起こして樹木を粉砕する。
破損したマリオネットもろとも、ひとつの脅威は音を立てて吹き飛ばされた。
そこにできた隙を衝くように、小男が光の槍を発射する。
しかし、威力も、手数も、速度も落ちた光線など、アリーの足取りにとって蝿ほどにも差支えないものだった。
さらりといなし、少女は高く跳ね上がる。
撃てよと言わんばかりによい的を演じた彼女は、ランペルツの単調な追撃を巻き込んで空間そのものを押しつぶし、イカヅチ轟く突風を叩きつけた。
唸り声を上げた死体は、跳ね上がった瓦礫に紛れて煙に消えた。
一瞬ひきつった笑みを浮かべたアリー。だが、波はまだ寄せる。
彼女の跳び上がった、その同程度の高さから、氷の礫が彼女に刃を向けた。
その一部に頬を切られつつ、アリーは着地して睨む。
正体を見るや、彼女は翡翠の目を鋭利に光らせた。
「エルザ……どうした? そんなところに立って」
驚くべき才能だ。
アリーは殺気立った表情をそのままに、恐ろしく優し気な声を発した。
人格を入れ替えでもしない限り、そんな人間を離れた切り替えは不可能だろう。少なくとも、常人には。或いは、かつての彼女には。
内面を異にするエルスベトの見た目をした何かは、何も返答しなかった。
「私の邪魔をして、何がしたいのかと聞いている。エルザ!!!」
アリーはどこまでも上昇する魔女の力を飛躍につぎ込み、風になってエルザに掴みかかった。
彼女が千切らんばかりに握りつぶした喉元には、すでに引き裂かれた跡が痛々しく残っている。
アリーは憐れな死体の目を覗き込むと、そのまま大剣で腹を貫いてしまった。
なけなしの血液がわずかに漏れ、少女は障害物の全てを退けたかに思えた。
しかし、涙のようなものを一滴だけ落としたその死体から、見る見るうちに氷の膜が広がっていくのに気が付く。
剣は既に氷に囚われ、このままでは自身の身も危ないと悟った彼女は、装備を諦めて引き下がる。
上階は、死体ごと氷の柱に飲み込まれ、閉ざされてしまった。
再びエントランスに舞い戻ったアリーは、舌打ちをする。しかし、すぐに表情を好転させて、まさに悪役のすべき高らかな笑い方で、その場の静寂を弾き飛ばした。
さあ邪魔は無くなったと、いよいよ階段に脚をかける。
以前にこの一段を踏んだのは数分前。それ以前は、過去の自分がヒールで踏んだ。
そして今は、血みどろで土塗れのブーツが絨毯を穢す。
それにしても彼女は、実に、実に聡明だ。
翡翠の瞳に死角はない。
仮に暗闇を衝けた者が居たとして、すぐさま不利は覆される。アウレリアとは、そういう存在だった。
彼女の足元に、崩落した壁からわずかに差した陽光が届いていた。
それは冬の奇妙な晴れの天下に灰塵の雲が被さった、異様な天気に弱められた光だったが、女にとっては十分だったらしい。
アリーは、光の粒子で形作られた腕々に、首を掴まれた。
腕や足も奇術にとられ、そのまま床に引き倒される少女。
どこからか現れたランペルツは、からかうようににじり寄ってきた。
「お前らしくない無様な態度ですねぇ……油断か、焦りか。いやぁ、せっかく盛り上がってきたのに」
さきほどまでとは変わって、小男は平静を取り戻しているようだ。立場を変えれば、興が醒めたようだとも形容できる。
アリーは今にも骨を折られてしまいそうなほど、強烈に床に縛り付けられている。
「既存の光を使えば、死体でもこのくらいの事はできる。私の血脈を侮りましたねぇ」
窒息しそうになっているアリーの頭上に跪き、ランペルツは蟻の巣でも眺めるような視線を送った。
鼻でため息をつくと、彼女の耳元に差す光に手を当て、そこから剣のようなものを引き出す。
束ねられた光が織りなす鋭利な刃は、アリーの金の髪に向けられた。
「あまりにあっけない。ここまで苦しめ、痛めつけ、育ててきた甲斐がないというものよ。全く。さあ立ちなさい。十秒差し上げます」
アリーは立ち上がることはおろか、腕を上げることもままならない。はりつけにされたまま、苦痛に瞳を歪ませている。
「どうしたアウレリア。立てよ。立ちなアリー。立て。立て!!」
地団太を踏んで怒鳴りつける死体。
しかし、アリーの意識は失神寸前にまで墜ちる。
するとランペルツは、ひざを突いて屈む。
「覚えてるだろ? お前から全てを奪ったのはあたしだ。妹を焼いてやったのも」
耳元で囁かれた言葉に、潰されかけている喉が唸り声をあげ始める。
床のタイルがガタガタと音を立て始め、地鳴りがする。
「そうだよアウレリア……怒れよ! 怒れ! 嘆け! 苦しめ! それがお前の力になる!」
青くうっ血しかけている喉から、更に激しい怒りが発せられる。
雷が奔りかけた。
だがその前に、時刻が訪れる。
ランペルツが、バタンと音を立てて倒れた。
アリーを縛り付けていた光も消え、激しい咳きともがく音が後を追う。
唾を垂らしながら地に這いつくばった彼女が見上げた先には、倒れた小男と、剣を担いだエドガーの姿があった。
アリーはこの戦闘が始まった瞬間から、エドガーを隠し最後の一手を温存させておいた。それが、彼女に勝利という結末をもたらしたのだ。
兄は妹に手を差し伸べ助けると、その背をいたわった。
息を切らしたアリーは、すぐに表情を笑みへと遷らせる。
「ざまぁみろ……」
ランペルツは心臓を一撃で貫かれている。
もはや、魔法を繰り出すことはできない。
アリーは死骸を蹴り飛ばし仰向けにすると、激しく迫って胸倉を掴みあげた。
「ざまあみやがれ!! あぁ!!? どうだゲス野郎!! 勝ちだ!! この私の!! 勝ちだ!!!!」
虚ろな目をした死体は、何も返さない。
少女はソレを何度も殴打し、馬乗りになって顔面が潰れるまで殴りつけ、ついには頭蓋を床に叩きつけ始めた。
見るも無残なその光景に、兄は一切の口出しをしない。
ただ、アリーの思う通りに。一貫した男は、痩せた腕をわずかにさすった。
「ずっとこうしてやりたかった!! 貴様をこの手で握りつぶしてやりたかった!! 死ね!! 死ね!! 死んで失せろ!!!」
もう、少女の殴っているものは人間ではない。
だが、ひたすらにそれを傷つけたいという衝動は、しばらくの間留まらなかった。
血と肉に塗れながら、アリーは延々と宿敵を殴り続けた。