第55話 雲
マルキアは、昼の寒空を見上げた。
作戦決行まで、残り一日を切る。家族たちは今頃、目的の地に到着しているだろう。
彼女は、そんなこととは微塵も知らぬ通り人を見送りながら、ベンチに呆然と座っていた。
家出のマルクがたどり着いたのは、アーテム西方、国の中央付近にあるキュールシュタットという地方都市だった。
そこに至るまでの数日間の放浪は、少しばかり少女をワクワクさせるものだったが、同時に自分は何をやっているのかという罪悪感、そして焦燥と虚無を心にもたらした。
街々の商店、市、有名な彫像や流行の服屋。風車に畑に、山、河、何もない平原。ずっと魔女だったマルクは、初めて自らの意志で世界を見つめたような気がしていた。
だがそんな旅も体力や心の減衰と共に陰りを見せ、今はこうして、ぼうっと空を見上げているのみとなった。
山脈に日を遮られるキールシュタットの街は、鉄資源に連なる工業で発展した歴史を持つ。
見るべきものは多く在るはずだが、その咲きかけた華が彼女をますます哀れな気分にさせる。
意気もすっかり消沈し、マルクは小さくため息をついた。
「どしたい、お嬢さん」
マルクがハッと見上げると、そこには奇妙な恰好をした青年が立っていた。
あまりに唐突なできごとで、わずかに委縮する。
目を合わせるのが嫌な彼女は、とっさに顔をそむけた。
「わしは人の心がよーくわかる。お嬢さんが悩んでおいでなのもね」
男は、彼女の隣にドカンと腰かける。
そして胸ポケットからペンと手帳を取り出すと、脚を投げ出してかかとで地面を打つ。
「小説家でね。取材にお付き合い願えますかな?」
なんと図々しいことかと、目撃者の誰もが男の振る舞いを非難するだろう。
あまりに飄々とした、かつ、大様なその青年に、流石のマルクも怪訝そうな表情で振り返る。
「関わらないで……」
だが、彼女が単に不審な若者を追い払いたいだけの胸中でないことを、青年は見抜いていた。
ペンをくるりと回し、がりがりと雑な音を立てて何かを書き込む。
「殊、名状し難き乙女心……なるほどねぇ。彼はえらく美人と見た」
からかわれたように感じたのか、マルクはきつい目でちらとだけ男を見る。
「バカにしないで」
だが、まるで運命の遣わした導師のような男は、出来た隙に巧妙に付け入ってくる。
「アブナイ事情だけは上手く隠して、吐いちまったらどうよ」
そのキツネの如き鋭利な横顔は、マルクをしっかりと捉えていた。
通行人が、いつの間にか消えている。巧みに演出された舞台では、思わずそのシナリオに乗ってしまいそうになるものだ。
マルクは考える時間を与えられると、意外にもあっさりと心を漏らす。
他人にでも、むしろ、見知らぬだれかだからこそ、そいつに吐いて捨ててしまいたい心情。彼女は、どぶ川の流れを押さえつけておけなかった。
「嫌――なんだ」
青年は音を立てない。
目を伏して、少女の邪魔をしないようにとだけ計らい、黙って聞いている。
「どうしたらいいのか分からない……もう全部ヤなの――」
たった一言二言の短文だったが、小説家はそれを貴重で情緒深い言葉として受け取った。
後続の言葉が無い事をしっかりと汲み取ってから、素早く書きつけノートを閉じる。
「――ありがとうよお嬢さん。いい物語が書けそうだ」
言い残す言葉をわずかに、男は立ち上がって去ろうとする。
なんとも通り風のような不可思議な青年だったと、マルクが彼を回顧すべき過去の出来事にしようとしていたその時、奇妙な上着ははためいた。
「わしの小説じゃ、逃げるのが一番無いパターンだ。間違いなく、つまらん上にキリの悪い出来になる」
マルクはそれが自分に向けられた言葉だと気づいてから、彼の存在に引きつけられた。
終わりを予想させ出来た油断の間に、ひとつ重要なキーを提示する。書き手は、巧妙な男だった。
「逃げた先で主人公は、確かに生きながらえるだろうよ。だが、そこに達成も熱情もない。ただ、後悔と喪失だけ。つまんねえさ、それは」
男は、ありきたりな、誰にでも当てはまりそうな事を言っただけなのかもしれない。彼女の悩みの種別を見抜いてそれらしい事を説いただけなのかもしれない。
だが、マルクにとってそれは十分に脚を動かし得るものとなった。
居ても立っても居られないという形容、そのものの様子で彼女は走り去る。
奇抜な服の男は、あまりにも目立たないままに消えた。
二人を見送ったベンチは、よほど面白い会話に立ちあえたものだと満足げにニスを光らせる。
誰も居なくなった通りを、太陽が真上から温めた。