第51話 たった三人の家族会議
カミラがくしゃみをした。
彼女が鼻をすするのを見兼ねて、大男はティッシュペーパーを一枚引いて渡す。
「ほれ」
カミラはその奇妙な紙のようなものに首をかしげた。
ハンカチでもなく、羊皮紙にしては薄くひらひらとし過ぎている。
「ちり紙ってやつだ。鼻をかむもんなんだと」
ドロノフは今日市場で仕入れて来たばかりの新しい商品を解説した。
それを使ってみたカミラは、どうやって洗うのか問う。
「使い捨てらしい」
カミラは新しい習慣に懐疑的な様子を見せながら、ゴミ箱へそれを放る。
「――エルザ、居なかったか」
そこで、大男は彼女の凍えの理由について言及した。
カミラは、アリーを探すと出かけたきりのエルザを、こんな夜更けまで探していたのだった。
あれから三日は経った。連絡は、何もない。
ドロノフはどういう心中か、唐突にこう切り出した。
「家族会議をしよう。マルクと、お前と俺で」
急な提案に男を見上げるカミラは、その表情が深く沈んだものであることを察した。
そっと頷くと、カミラはようやく設置したガスストーブの面倒を見にかかる。
ドロノフは、ベッドの有り余った二階で眠るマルクを起こしに向かった。
三人が揃うと、ずいぶん広々としてしまったテーブルを囲む。
椅子は、しっかり八人分出してある。空席は五つ。
カミラがコーヒーを出して、ドロノフだけが口をつける。
電気を落とし、ランプだけに頼った広い部屋の灯りは、皆の顔に濃い影を作った。
誰も、話し出そうとはしない。
疲れ果てたように、ぼうっとしている。
懸命に働くストーブの音だけが、彼らの静寂を慰めていた。
マルクが、寒そうに腕をさする。
外はもう、鳥も虫も鳴かない冬の真夜中だ。
「確認しておきたい。二人ともだ」
ドロノフが、イスに寄りかかった姿勢のまま急に声を放った。
カミラは無言のまま。マルクは、相変わらず前髪に表情を隠したまま頷いた。
「アリー様に付いていく自身はあるか」
ドロノフは、低い声で、しかしはっきりと問いを提示した。
また静寂が続き、しんみりとした緊張が漂い出すかとも思えたが、カミラはすぐに答える。
「ええ」
あまりにも間を置かないイエスの回答だった。
彼女の中には、ひとつ決まったものがあるらしい。
が、それに続く頷きはなかった。
マルクは、何も言えなかったのだった。
ドロノフはやはりといった態度で小さくため息をつく。
「ここから先は、一切乱れない結束が必要だ。地獄の底にも付いていける、そういう――ぶっ壊れた胆が要る」
ドロノフは斜めに天井を見上げながら話し、一息ついてから前傾姿勢を取る。
肘をついて、白髪の少女を覗き込んだ。
「お前はアリー様のために悪魔になれるか。マルク」
浅黒い肌の少女は、黙ってうつむいたままだ。
人と目を合わせるのは、家族であっても得意ではない。
彼女は肯定も否定もせず、そのまま嫌な空気が過ぎ去るのを待っていた。
ドロノフはその高い鼻で一息吐くと、長い足を投げ出して組んだ。
「ま、最終的にで良い。もし徹しきれないなら、それでいい。自分の心の素直な答えが決まったら言えや。アリー様に内緒で、どっか外国にでも逃がして――」
「やる」
ドロノフは目元をピクリとさせた。
マルクは、彼の言葉を遮って回答した。
だがそこには、何かに追われるような焦りが含まれている。それに気づかない男ではなかった。
「――今のは聞かなかったことにしてやる。決行は四日後だ。それまでに決めな」
ドロノフは投げ捨てるように言いながら立ち上がり、そのままお休みの挨拶を指先で済ませ、二階へ上がって行ってしまった。
カミラは、残されてしまったマルクを細い目で見つめていた。
そしてしばらくすると、彼女の元へ向かい、隣に座った。そこはフーゴの席だった。
「辛かったら私に言いなさい」
カミラは、たたんで持っていたコートを彼女の背にかけた。
その横顔を覗き、彼女に語りかける。
「もしあなたが付いて来たくなくても、私たちは家族です」
マルクは下唇を噛みしめて、ゆっくりと立ち上がる。
コートを彼女に返し、ドアの方へ歩いて行った。
何も言わずに、震える肩で。
「マルク!」
カミラに呼び止められぴたりと止まる。
マルクは、身体ごと振り向いた。
「忘れものですよ」
姉代わりの少女が差し出していたのは、彼女の上着と、マスケット銃だった。柄に名の刻まれた、死線を共にしたもう一人の家族だった。
マルクは銃を手にすると、ぎゅっと握りしめて、そのままカミラの胸に倒れ込んだ。
彼女を抱きとめると、カミラは白く脱色された髪を優しく撫でる。
そしてマルクを解き放つと、そのまま出ていく彼女を見送った。
また一人家族は減った。
それを、少女は見送った。
「あの、良いのですか」
カミラにそう尋ねたのは、一連の様子を窺っていたウラだった。
彼女はマルクが出ていくまで気配を殺して見ており、その直後にドアをノックした。
ちょうどヴィントミューレからたどり着いた時に起きていた出来事に、彼女は懸念を示す。
「ええ。あの子がどうするかは、あの子にしか決められませんから」
暖炉のそばに用意した椅子に彼女を案内し、ポットに残ったコーヒーを淹れるとカミラはそう言った。
ウラは歓迎に甘えながら、カミラの様子を不思議そうに見ている。
結局ほとんど減らなかったコーヒーを片付けながら、彼女ができるだけ平静を装っていたからだ。
「それが家族というものなのですか? しかし、人員を欠けば作戦効率を損ないます。それは殿下の本意に背くのでは?」
首ごと目で彼女を追いかけながら、ウラは純粋な疑問としてそれをぶつける。
「シュルフさん、ご両親は?」
カミラは、質問で返した。
ウラはいまいち釈然としない顔をしつつも、つい昨年死に別れたと答える。
それを受けて彼女は、最近できた歓迎すべきであるのか定かではない家族に対して、少々きつい問いを投げかけるのだ。
「なら、あなたにも分かるはずです。ご両親の愛が如何なるものであったのか」
すると、先ほどまでの怪訝そうな表情を覆し、ウラは真剣な面持ちで自身の境遇について話し始める。
「私には愛など必要ありません。王臣が一人、それを然るべき時に提供する。そのための血です。父や母は、己が代でそれが叶わなかった。故に私が成す。少なくとも私の家族はそのように生きる」
洗い物を長引かせながら、カミラは虚しくも誠実な言葉を背で聞いていた。
ウラが主人にとってどのような関係の者なのかを知らされていない彼女は、アリーに隠された重大な秘密を疑問に思う気持ちと、従属的な育ちを経てきた彼女に対する憐れみの両方に心を痛めていた。
そして、誤ってコップを取り落とし、大きな音を出してしまった事でその手を止める。
「――あなたも同じですか」
恐ろしく小さな声で呟いた。
それがウラに伝わっていたのかどうかは分からない。
ただ、彼女が流し台のコップを拾って続けた言葉が少女の耳を打った事は、それだけは確かな事であった。
「あの方と……神と共に沈む運命なのは」