第46話 哀れ、叛逆
フーゴという名は、偽名だ。
正確には、アリーに与えられた仮の名前。聡明、賢明、思慮深き心という意味合いを持つ、実に愛情深い名前だ。
彼は、本名イオニアス・ベンソンは、元魔女狩りの家の者だった。
少年が奴隷に堕ちた経緯には、少しばかり複雑な事情が絡む。
彼の家、ベンソン家は、魔女狩りの五家のひとつだった。
しかし、その血はフーゴの祖父の代で人間と交わり、子、すなわち彼の父親は、ただの人間となった。
魔女が失われた魔女狩りの家系は当然、その席を追われる。ベンソン家は、他に理由をつけて公爵位をはく奪され、一介の貴族になり下がった。
その代の夫婦にとっては、どんな不名誉も愛のもとにかき消されるものであったが、子にとっては背負うものが大きすぎた。
自分のせいで失墜した家名、凡庸な人間である母への嫌悪。フーゴの父親は、いずれにしても魔女狩りへの復帰を望んでやまなかった。
そんな中生まれたのが、二人の兄弟だった。何と幸運なことに、そのうちの弟は魔女の才を生まれ持っていた。
親が魔女でないのに、隔世遺伝的にその才を受け継ぐ魔女。古くからそれは、濁血と呼ばれてきた。
父親は大変喜んだが、すぐに黒い噂が舞い込んでくる。
濁血とは、今は無き魔女の習わしにおいて穢れた魔女を指す言葉。不純な性質と偏見を持たれていた濁血は、その眼に呪いを宿すとして恐れられていた歴史があったのだ。
そのことをある人物に知らされ、恐怖感を煽られた父親は、濁血の目が呪いを振りまくと信じ込み、息子の目をえぐり取ってしまった。
罪悪感と恐怖感から逃れようと、まだ数歳の息子を奴隷市に放り込んだ父親は、挙句の果てに自害で死んだ。
盲目のうえ奴隷生活を強いられた少年は、ひどい精神状態に置かれた。
しかし、その人格をもって自身を律し続けた彼は、労働に借り出される生活において、ある程度自由が利くことを利用し、十八になる頃には独自に周囲の様子を察知する術を身に付ける。
檻の中で計画を綿密に立てた末、武器を上手く盗み、ついには脱走に成功した。
そうして逃げ出した後、あてどなく彷徨っていたところを、アウレリアに拾われる。
それが、フーゴの人生である。
彼の道は多難だ。
彼は常に災いの中で生きてきた。
しかし彼は、決して不幸せではなかった。
自分にできる精いっぱいをもって、彼は歩いてきた。
そして、これからもそうあり続けるだろう。
フーゴは、実に真っすぐな男だ。
静かな怒鳴り声が響いた。
「本当にそれで良いのかよ」
声の主は、銀髪の大男。
フーゴは一回り小さい身体で、彼に正面から向き合っていた。
エルザは動揺して、回答を見送った。彼女に選択を迫るのは残酷だと、彼は、家に残り自分と戦うよう諭した。
カミラは、彼を避けるようにして顔を合わせてくれない。ドロノフから、自分が裏切ると教えられていたのかもしれない。
そして、今は、最後の男のもとでこう宣言するのだ。
「――はい」
フーゴは、あまりにも空洞化してしまったその空気に、声を落とす。
ドロノフは彼を、無表情で見下ろしていた。
明け方の暗い部屋。
終戦後のひと月、一度も翠眼の主人を迎えていない、魔女の家。
たった五人になってしまった住人が、また一人、減る。
此処は、静寂でしか去る者を見送ることはできない。
思い出をそっと手渡すことでしか、涙することはできない。
悲しい別れを、止める術は、ない。
骨がぶつかる、強い音が鳴り響いた。
直後、木の床をものが打つ音。
ドロノフは、フーゴを力いっぱい殴り倒した。
「俺達と敵対するなら……容赦はしない」
声は、震えを隠しきれていない。
それを何とか飲み込むと、彼は言い放った。
「お前は、俺が殺す。アリー様には二度と触れさせねえ。分かったら、さっさと消え失せろ」
声が、思ったよりも小さかった。
フーゴはしばらく倒れたままだったが、起き上がると、玄関の方へ歩いていく。
そして、ドアの前でどうしようもなく立ち尽くし、数秒のうちにこの家から消えた。
ドロノフは、その姿から目を離さなかった。
「下手ですね」
カミラは、階段の上に居た。
膝を抱えて座り込んだまま、かなりの時間が過ぎ去った後、その場からは見えない彼に声を投げた。
ドロノフは黙ったままだったが、間違いなくそこに立っていた。
「フーゴもわかってる。あなたが……あなたが――」
カミラの声は、その一言二言の間にどんどん震えていった。
深海に溺れるように、彼女は苦しそうな声で泣いた。
「あなたが――優しすぎるひとだって――」
返事はなかった。
彼女のすすり泣く声だけが、たった二人しかいない家に響いていた。
暗い、暗い夜明けだった。
寒く、黒い曇天のうちに、明けない夜が終わった。
「何処へ行く」
ぴたりと立ち止まる。
初冬、早々の寒波による寒さで氷漬けになってしまったのかと思われた。
その男フーゴは、身体の雪解けを待つようにじっと黙り込む。それからわずかに振り向き、彼女に右頬だけを見せた。
「分かっているはずです」
フーゴが再び前へ向き直ると、家壁に寄りかかる彼の主人は自身の手を息で温める。
「今日は寒い。もう戻れ」
青年の奥歯に力が入る。
しばらく、二人は動かなかった。
片や立ちすくみ、片や腕組みで寄り掛かる。
寒い朝だ。
「アリー様……」
精一杯の呼びかけだった。
青年は、その名詞にあらゆるものを込めた。当の格の持ち主は、黙って聞く。
「今あなたと戦わないのは、一対一では勝てないからです」
自然と拳に集まる力をできる限り制御して、フーゴは注意深く発言を続ける。
「ですが、僕があなたの企みを土産に寝返れば……バルトブルクは先んじて手を打つでしょう。魔女の軍勢を一人前に鍛える猶予は、あなたにはない」
僅かに八重歯が垣間見える、そういった表情だった。
彼は、心をひどく痛めつけながら、その台詞を読み切ったのだった。
しかし、甲斐はなかった。青年にとっては予想通りの反応だ。
「お前如きでは、私の前に立ちはだかるに値しない。いいから戻れ。今日はいっそう冷え込む」
そう言い捨てるアリーは、姿勢も視線も一切ぶれさせない。まるでラジオを乗せた人形であるかのように、彼女は無機質に喋った。
「あなたはザリの死を、マーシャの犠牲をなんだと思っているんですか? 彼女たちが命を捧げてまであなたを守ったっていうのに、なぜ――それだけ、聞いておきたい」
フーゴは、何かに打ち震えてそう言った。
回答次第で彼が、彼女が変わるわけではない。しかし、アリーの口からほんの少しでも――
青年は、そう思わざるを得なかった。
「痛ましいことだよ。だが、意志など関係ない。私は進み、死ぬ者は死ぬ。それだけだ」
思った通りに、思い通りでない言葉だった。
青年は、それで打ち止めにすることに決めた。
「これだけは言わせてください」
アリーは横目でフーゴを見る。
壁から離れて、向かって立つ。
彼の背は振り返り、頭を深く下げた。
深く深く、腰を折って、頭を下げた。
「ありがとうございました」
フーゴは、すでに語る言葉を持たなかった。
あとは、去るしかない。
去って、彼女のために戦うしかない。
青年は、最後に目いっぱいの言葉を切り離し、置いていく。
アリーは、彼の言葉をそこに落としたまま、雪に消える男を見送った。