第36話 たかる虫と囁く吐息
案の定、アリーとフーゴは口論になった。
構図は一方的に責めたてるフーゴと、それにまともに取り合わないアリーといったものだったが、とても良好な状態とは言えない事だけは確かだ。
あの後、見事作戦を成し遂げ喝采を浴びた魔女は、それぞれの持ち場に戻っていった。
その場での喧嘩は得策ではないと、いったん場を離れたフーゴ。夜まで考え、アリーの自室に抗議しに行った彼は一人だった。
どういうつもりかという宣戦布告の一言に始まり、応酬は次第に勢いを増す。
「最終決戦を迎えるって時に、部下を弄ぶようなふるまい……とても看過できません」
「判断は適切だった。脅威を沈黙させ、かつ保存できるのはあられと吹雪の魔女をおいて他にない。新型機を献上したとなれば、魔女の評価はいっそう向上することだろう。それに、弄んだとは聞き捨てならんなぁイオニアス。私はエルザを信頼しただけだ」
アリーはこれまで家族に向けたことのないような、爪を立てた言葉を放つ。
しかし、その表情はほくそ笑んでいた。
「その名で呼ばないでください……アリー様、あなたはいったいどうしたっていうんですか。何があなたをそんな風に! あなたは家族を試すようなことをしたり、わざわざ危険にさらしたりするような人じゃ――」
激しくまくしたてる。
思いのたけを全てぶつける盲目の青年は、完全に熱くなりきっていた。
アリーは彼の言葉をギリギリまで聞いて、そしてその内容を予期していたかのような台詞を撃つ。
「私が豹変してしまったと、そう言いたいんだろう。だが、あいにくだな。お前が知る私の姿など、所詮は休息の形態に過ぎない。解るか? それはあくまで私の一部だということだ」
フーゴは唖然とした。
何か底知れない魔獣のような恐ろしい影が、彼女の中に透けて見えた。
その影は、彼の目が閉じている間にアリーを蝕み、乗っ取ってしまったのだと、フーゴは息をのむ。
アリーは定位置の椅子に戻ると、再び窓の外へ視線をやった。
「――無論、お前たちを傷つけようなどとは考えていない。ただ従えと言っているだけだよ、フーゴ」
冷や汗を頬に、残暑の失せた夜にたたずむ青年。
彼の目は、金色の存在感から離れる事はなかった。
「あなたは――」
「私の道にもはや敗北は無い。憂いは無い。立ちはだかる壁も無い。すべて薙ぎ倒した……後は至るのみだ。最たる果ての、その先にな」
不気味な沈黙が流れる。
自然を寄せ付けない市街地では、ミミズクの鳴き声も虫の寝息も聞こえてはこない。
わずかにでもたじろげば、靴音でそれを覚られてしまう。
フーゴはその場に、縛りつけられた。
途端、アリーは指を鳴らす。
叩き起こされた風に煽られて、ドアは音を立てて閉まる。
締め出されたフーゴは、しばらくの間鉄の板と睨みあっていた
ギリと歯を軋らせると、彼はそこから立ち去る。
その気配を最後まで見送り、アリーは相変わらずの着席のまま夜を明かす。
ただただ、代わり映えしない外の景色を見つめながら。
「やあやあ」
ぴたりと立ち止まった。
声の主は、今度は彼に気取られないように近づいてきていた。
話しかけられて初めてその存在に気付かされたフーゴは、少しばかりの畏怖を感じる。
「またお前か。いつもいつも、直接は手を下さない。そして物陰から現れる。最低な奴だ」
彼の毛嫌いするその者は、今度は男の姿をしていた。
「灯りを灯せば影ができる。影は灯りのあり様で変化する。それが影落とし。便利な小技ってわけだ。お前のような卑怯者にはうってつけだな。何を企んでる」
男は柱に寄りかかり、ヘラヘラとしている。
そして、その影から剣を取り出し見せた。
眉をひそめたフーゴは、彼に戦意があることを覚る。
「何のつもりだ」
「なあに、あなたとお話をするなら、剣を交えながらの方が都合がいいと思いましてね? それに、どうも最近運動の機会がない。アウレリア卿のおかげで、魔女狩りもすっかり失業者というわけです」
フーゴは剣を携帯していない。
仕方なく、素手で応戦するために構えを取る。
丸腰相手に悠々と刃物を振るえるプライド無き男は、かなりの動きでフーゴを翻弄した。
地面をはいずるような独特の低姿勢で、予測できない位置からの攻撃を繰り返す。
しかし、死角を衝くその動きも、元より気配だけで周囲の様子を測っているフーゴの前では効果は半減する。
かすりもせず刃をかわし、ついには男の手首を突いて武器を取り上げた。
関節を上手く捕らえ、敵を拘束したフーゴは会話を再開する。
「以前、僕に手紙をよこせと言ったな。もう一度言う。今度は何のつもりだ」
強く抑えても痛みを感じていない様子の男に、少々いら立ちを見せるフーゴ。
それは、男が自分の知っているその者とは全く異なる動きをしたことに対する驚きにも起因していた。
敵は沈黙を貫く。
「気色の悪い……この男はどこのどいつだ。よっぽどの手練れに思えたが?」
しかし、尚も語らない。
わざわざ刺客を差し向けてまで自分に何の用なのか、フーゴはますますわからなくなってきていた。
その次の瞬間だ。
青年がハッとした時には、既に遅かった。
新たに現れた刃の気配は、すぐ首の後ろまで迫っていた。
油断を衝かれたと血の気の引くフーゴ。
これまでなのかと、最期の時を待つ脳は現実とかい離してゆっくりと状況を捉えていた。
敵が最初に自分の感知を掻い潜った時点で、潜む新手の可能性に気付くべきだった。
そう後悔し、死によって家族と道を分かつことを覚悟する。
が、それも杞憂に終わった。
どこからか射られた水の矢が、その刀を手首ごと薙ぎ払ったのだ。
実に精密な射撃だった。
すぐにフーゴがその出どころへ探りを入れると、射手はカミラ。
すんでのところで、彼は命拾いした。
「全員動かないでください。ここに居るうち、誰が一番速いか。それを試すなら、あなた方は神にお会いすることになるでしょう」
二人の男は動きを止め、うち、後ろからフーゴに斬りかかった者は卒倒した。
カミラはその様子を怪しむが、フーゴは尋問を続行する。
「卑怯者め。もういいだろう。言えよ、僕に何の用があるんだ」
彼が捕えていた男は、ここにきてようやく口を開いた。
しかし、それは彼にしか聞こえない、ささやかな呟き。
そして、決定的な一言だった。
「家族を想うなら、危険を排除しろ」
「何――」
フーゴは、その言葉をまともに受けた。
「奴を野放しにしておけば必ず犠牲が出る。そこの女もいつか死ぬ。お前がやるべきことは一つだろう」
フーゴには、男の言わんとしている事が理解できた。
そして、それに頷きかけている自分に気付く。
「黙れ……! そんな事はできない!」
「さてどうかな? シャッツカマーで待ってますよ」
場所を告げると、男は急に脱力し、その場に崩れた。
残されたフーゴとカミラは、それぞれが別の理由で混乱している。
「どうしたんです、フーゴ! 彼らは……?」
彼女は突然敵が二人とも倒れたことに驚いているが、フーゴはそれに答えない。
あらゆる考えが彼の脳を支配し、ここから意識を遠ざけていたからだ。
カミラにその肩をゆすられるまで、彼は声をかけられていることにも気付かなかった。
不意の襲撃についてアリーに報告しようというカミラに、彼は首を振った。
敵の正体はなんなのか、知り合いなのかと問われるも、判然としない態度だ。
「どうしたんですか……ちゃんと言ってくださいフーゴ! 私たちは家族でしょう。隠し事は――」
「ごめん」
フーゴはカミラを顧みないまま立ち上がり、思いつめた表情のまま立ち去った。
彼が寝床に戻ったのかどうかも、後を追えなかったカミラにはわからない。
この先家族がどうなってしまうのかも、カミラには、わからなかった。