第35話 落ちる影
「わかりました。あなたはそういう考えなんですね。失礼します」
ドアがぴしゃりと開く。
ものものしい気配がしていると思えば、突然目の前に現れたフーゴに、エルザは跳ね上がった。
彼女は何か声をかけようとしたが、青年は不機嫌そうに少女を横切り去った。
元々マーシャの容体を見に来たエルザが恐る恐る部屋に入ると、しんみりとした表情のドロノフが椅子に腰かけているのを見つける。
「あの……」
「ああ、悪いな驚かしちまって。ちょっと揉めてよ――」
苦笑いで銀髪を撫でる大男。
喧嘩など一度もしたことのないフーゴとドロノフがこの有様とは、どれほどの事が起きたのかとエルザは尋ねる以外になかった。
少し渋っている彼の代わりに、マーシャが答える。
「アリー様を疑わないのかってさ」
極端な小声で話したマーシャは、顔を包帯で覆っては要るものの、痛々しい苦痛にもがくこともなく、ベッドで起き上がっている状態だった。
超自然的な癒しの力が宿る魔女の遺伝子をもってすれば、化学兵器による再起不能な損失をも取り戻せる。ここ一ヶ月における彼女の回復は、そのことの証明だった。
ドロノフの右腕も、流石に生えなおしてはくれないようだったが、傷口は既に跡形もない。
しかし、見た目には順調である二人にも、新たな課題が生まれてしまった。それを、マーシャが説明する。
「あれだけ家族の犠牲を嘆いてたのに、突然何もかもほったらかしてひと月も居なくなって、帰ってきたらきたで、あの開き直り方。なんかあったのかって疑わない方がどうかしてるーってさ。そう言ってたよ」
アリーの経緯は、ほとんどの者に伝えられていなかった。
彼女があの日、どこへ連れていかれたのかも、何をしに行ったのかも、誰も知らない。
フーゴの言う通り、これでは盲目的に信じようにも不安が付きまとう。
「あいつの言う事は最もだ。彼女の様子は明らかにおかしい。前と比べて、だがな」
ドロノフは同意した。
彼もアリーについて不信に思う事が何もないわけではなく、むしろ察しの利く男ならではの視点でそれらをしっかりと捉えていた。
しかし、現状把握、その後に行われる判断の段階で、彼はフーゴと食い違っていた。
「しかしな。これはエルザにも言っときたいことだが」
うつむきがちだった彼は、ドアの前に突っ立っているエルザの方に身体を向け直し、高い座高からエルザを見つめた。
「だから何だ、ってことだ。俺たちにはあの人を疑ってどうこうするって選択肢はない。ハイラントフリートは家族である前に、組織だ。首はアウレリア卿。それを忘れちゃいけねえ」
北の民らしい主義だった。
彼の優先順位は、自分ではなく組織の意思決定。言いたいことは山ほどあるはずだが、それでも隊列を乱すべきではないというのがドロノフの考えらしい。
マーシャも特に反論しない。
まだ少しばかり残る夏の暑さのせいか、エルザのこめかみには汗が伝った。
「私は――」
エルザは何かを言いかける。
しかしそれと同じタイミングで横やりが入った。
耳を強く打つ、サイレンの音だ。
高いのか低いのか分からない、喉の奥まで震わせる、いやおうなしにヒトの注意を引きつけるような。とにかく、それは不快で不安を煽る音だった。
この場所に来てはじめての出来事に、何事かと部屋の外へ飛び出すエルザとドロノフ。
どうやら、この街の警報を利用しているらしい。
軍事区画として一般住民を追い出している此処でそれが鳴るということは、敵の襲撃が起こるということ。
エルザにマーシャについているように言いつけてから、ドロノフは久しぶりの全力疾走で駆けだした。
振る腕が少ないことで違和感を覚えながらも、アリーが自室としている部屋のある建屋に走る。
そして着き、ノックのいとまも無くドアを開けた。
「アリー様!」
アリーは、窓の外を見ながら相変わらず机に向かって座っていた。
ドアに背を向けたまま振り返る素振りすらない。
「おい聞こえてんだろ!! 敵襲なのか? それなら指示を――」
アリーは右手を挙げた。
指は握られても伸ばされてもいない、挙手の程度。
手は肩程の高さにある。
何事かと、ドロノフは怪訝そうにそれを見つめた。
「敵戦闘機の接近を確認。本拠点上空まで残り十五分と想定される。総員、第三区画中央広場に集合せよ。全車両もそこに集結。一点の漏れもないよう徹底されたし」
左手には無線機があった。
ドアの外に立っていたドロノフは、それが街中の放送機から、少し遅れて流されたことを知る。
アリーは通信を切ると、彼に行けとだけ告げた。
少しの間黙ることでその態度への抗議を行い、返事をするとドロノフはベランダから飛び降り、近くの輸送車に乗り込んで走り去った。
アリーはすぐに後を追って部屋を出る。
十分もしないうちに、この中規模市街に駐屯している師団のほぼ全てが指定個所に集まった。
ざわざわと不安を共有する大軍の発する雑音が大きくなる。
そこに頭上からの一喝を与えたのが、拡声器を携えたアリーだった。
宿舎の屋根から声を放った実質的師団長に、一気に場は静まり返る。
この点は、流石に訓練された兵隊だといえるだろう。
アリーは状況を説明した。
「さきほど、敵機接近の知らせがあった。必要と判断し、サイレンと指示を出したのは私だ。敵はその進路から、目標地点を恐らくここに設定している。魔女が駐在していると知れた故だろうが、問題はない。相手は単機。攻撃方法は急降下突撃による自爆だと考えられる」
兵らが一瞬動揺するのを、アリーは見逃さなかった。
気が付いた、と彼女は顔を歪ませる。
「察したことだろうが、そこでだ。諸君らには良い的になってもらう。敵に損害を与えようというのなら、敵は兵舎か生産施設、あるいは病院などを狙うだろう。だが、攻撃対象がこれほど明確に集まっていればその限りではない。間違いなく、ここへ落ちてくる」
更にどよめきが強まる中、兵の一人が意図に気付いたような声を挙げた。
「そうか! 魔女が!」
その声はかなりの雑音の中でも、比較的通った。
対空のドクトリンに乏しいこの時代においても、人々は理解したらしい。
魔法による迎撃を確実にする事こそが、アリーの作戦だったのだ。
アリーが追って説明を施したが、既にその時点で兵たちは納得していた。
そして緊張の五分強がいよいよ明け、少女は双眼鏡で敵機影を視認する。
「――なるほど、確かに単機。爆弾を腹に括りつけていやがる。忠誠心で暴走したか、破れかぶれの愚策なのか……まあいいが、見たことのない型だな。クローネラントから近いとはいえ、この航続距離と高度。そうとうな高性能というわけだ。それに制空を掻い潜る腕。ベルネブットも惜しいことをする」
奇怪な引き笑いと共に、飛んできた虫を迎えるアリー。
そこで、無線を使って事前の命令を変更する。
「迎撃用意、整っているな。ところで、敵は最新鋭の航空機に乗っている。これを焼くのは惜しいというものだろう? エルザ、迎撃はお前に任せよう。他は手を出すな。以上、健闘を祈るよ」
返しの通信を受け付けないまま、アリーは無線を切った。
直前になって賭けに近い作戦変更をした彼女に、屋根で構えていた魔女たちは動揺した。
そしてそれは、あられと吹雪の魔女にとって混乱に追い打ちをかける状況となって襲いかかった。
ハイラントフリートの面々は顔を見合わせ、口々に焦りを露わにしている。
命令に従い黙って見ているべきか。
もしエルザが外せば広場の兵士たちに甚大な被害が出ることになる。
そうなった場合、責任問題となりここまでの旅路は無意味に。
エルザ自身もそれらを覚っており、血の気のひく思いで汗だくになってしまっている。
もう、いつ鉄の塊が降ってきてもおかしくはない。
過呼吸になりかけているエルザ。
その肩を、誰かがそっと抱いた。
はっと見上げると、それは盲目の青年。
彼は立ち上がって叫んだ。
「総員、迎撃用意!! 今からは僕の言う事だけを聞いてくれ!!」
その声は、かなり大げさに響いた。
無線など要さない、大胆不敵な大声が、戦場となった市街地を駆け巡る。
当のアリーもそれを聞き届けたようで、尚も笑顔で、腕組みをしてフーゴたちの居る方を眺めている。
そしてフーゴは、エルザに優しく耳打ちした。
「まずは君が撃つんだ。大丈夫。仕損じても僕たちがフォローする」
そう言って彼女の肩を手放すと、彼はより高い屋根へと移っていった。
しっかり狙えと指示を繰り出すフーゴの威勢に感化されて、戸惑っていた魔女たちも迎撃の構えを取り直し始める。
それらは筆頭の指示に背く光景だったが、アリーは不機嫌になることも、中止させることもしない。
まるでボードゲームを観察するかのように、興味深そうに、楽しそうに眺めていた。
単独でその屋根に立つ彼女には、どういうつもりか問うてくる臣下はついていない。
「来たぞ! 狙え!!」
フーゴの掛け声がメンバーに届くころには、既に戦闘機は急降下を開始していた。
狙い通り、広場に向かってまっしぐらだ。
身を捻り、鷹かトビと見間違うほど優雅に舞い落ちる。
エルザは震える指で狙いをつけ、当たる、当たると呟きながら、射程に入るのを待つ。
エンジンの音が轟々と聞こえてくる。
引きつけ引きつけ、距離が縮まってから、エルザは思いっきり叫び、撃った。
放たれた矢は銃弾よりも速く走り、敵機の胴を見事射抜く。
途端に氷の花が咲き、人殺しの兵器は見事に彩られた氷塊となって落下。
それをフーゴを含む数人が飛びあがって受け止め、回収した。
見事と言える連携が機能して、奇襲は無事に阻止された。