第34話 迫る音
アリーはカミラをつれ、二日後の会議に参加した。
定刻通り、逸りも遅れもせずに兵舎の門をくぐる。
部屋は、出来る限りのもてなしが施されたテーブルに鼻の高い高官がずらりと並んだ前回とは、少々様子が違った。
その場に集まったのは現場をやりくりする苦労人たち。彼女たちと何度も顔合わせをしている面子だった。
そこでアリーは、要塞群に沿う停滞した前線を切り崩すプラン、その全体像だけを伝え、具体的な突破方法については魔女に一任してほしいと説明。
少し前のうつむきがちな態度などどこへやら。
彼女は実に確信的に、喜々として己を信頼せよと豪語した。
十分すぎるほどに実績のある彼女の言葉はすぐに受け入れられ、再びバウムヨハンを取り囲むフェイクの大規模攻勢が決定される。
不思議なほどに、アリーが拘束されていた事実を気に掛ける者や、一時的にかけられていた疑いについて案じる者はいなかった。
それだけ彼女への信頼が厚く、かつ、要塞線突破への見込みが無く、何にでも縋りたい戦況が続いているということらしい。
話はとんとん拍子に進み、あとは彼女がどのような戦術をもって突破点を生み出すのか、司令部は楽しみに待つのみとなった。
戦勝の誓いを立て、会議は二時間ほどで解散した。
その帰り道、今日に残る用事はベッドにつく事だけだというのに、アリーはかなりの速足だった。
不可解なほどに晴れ渡った満天の星空が、軍用車両ばかりの街並みを包み込んでいる。
カミラは、主人の後ろ姿に声をかけざるを得なかった。
「一体、何があったのですか。戻られてからというもの、どこか――」
そのセリフは空を切り、雑音の一部と消える。
閊えた心情の吐露以外のなにものでもない訴えは、あえなく棄却されてしまった。
主人は、何も答えない。
「……お願いします。アリー様」
カミラの声色は、いまにも枯れそうであるという情を乗せつつも、冷静であり続けた。
アリーの最初の家族は、彼女の変化を幾度か目にしてきた。
だからこその、その会話だった。
「簡単な話さ」
突然、アリーは立ち止まった
すぐ後ろについていたカミラは、危なく衝突しそうになる。
彼女より頭一つ小さな女王は、奇妙な間を作った。
会話のリズムを突き崩す沈黙は、その王の十八番だ。
何度もそれを経験してきた、慣れた家族でさえ、今はうろたえてしまう。
そうして注意を引きつけてから、アリーはこう言うのだ。
「お前なら分かるだろう」
振り返ったその顔は、カミラに最初の光景を思い出させた。
二人の記憶が始まった最初の景色。奴隷屋の男に金を放ったアリーが、彼女へと手を差し伸べたその時のことだ。
アリーは、嬉しそうだった。
そこには期待に胸躍らせる少女と、人間に身をやつした悪鬼が混在していた。
その顔を再び目にしたことで、カミラは確信した。
アリーがそれを選んだことを。そして、五度目はないだろうということを。
再び歩き出したアリーに、カミラはしばらくついていけなかった。
呆然と立ち尽くしてしまい、しばらく、その後を追えなかった。
カミラは自室へと戻った。
夜もかなり更け、もう守備担当以外のほとんどの者が寝静まっている。
彼女もまた、今日の役目を終えようとしていた。
しかし、やはりと言うべきか。
彼女は眠れなかった。
何度も寝返りを打っては、無表情に壁を見つめる。
つまらない木材に慰めの落書きを探しつつ、彼女は小一時間考え事にふけった。晴天の夜空が演出する静寂に、敵地での平穏を借り受けながら。
ふと気が付くと、ノックをする者がいる。
カミラは注意だけを外へ向け、身体を起こすことはしない。
夜中に若い女性の部屋にやってくるのは大抵邪念深い男性と決まっているものだが、今回は違った。
「カミラ――起きてる」
言葉に疑問の意味を持たせるためには、彼女たちの言語では語尾を上げる必要がある。
しかし、母国語のなまりが残っての事か、それともシャイな性格を反映してか。マルクはいつもの通り、平坦に声を発した。
もちろんカミラは言語学者ではなく、それを過度に気にすることなく理解している。
返答は、いつも通りだった。
「ええ。入ってもいいですよ」
しかし、扉があく気配はない。
これもいつも通りだ。
顔を合わせて話をすることは、マルクにとって戦場で人を撃つ事よりも忌避すべきこと。
ドア越しの会話が続けられた。
「アリーが――」
形容に迷っているようだった。
主人の様子がおかしいか、変であるか、それとも怖いか。
どれも、彼女の感じている違和感を言い表すには適さない。
凱旋の広場で、辺りを見回し家族を探す素振りすら見せなかったアリー。その事について彼女が話したがっているのが、カミラにはすぐに察せられた。
マルクが自分から悩みを、苦しみを共有しようとしている希有な状況はさておいて、カミラは自分同様の心配を抱いている者がいることに少しだけ安堵していた。
「大丈夫です」
その台詞は、書き起こせば強がりに見える。
しかし、その時のその空間を共有した二人には、とても優しく、包み込むような音が反響したように感じられた。
彼女は、声色の理由を語る。
「アリー様は変わってなどいない。前にも言ったような気がします。あの方の本質は、ご自身の在り様そのもの。隠しているようで、そうでない。話さぬようで、醸している。それがあの方の生き方です。大丈夫。茨の道を往こうとも、翠眼の魔女は家族を蔑ろにはしません」
返答はない。
返答はないのだが、靴の擦れる音がした。
そして、先ほどから低い位置で聞こえていた声が、上の方へとその源を移した。
「カミラのことはよく知ってる。でも私は、自分のことがわからない」
それは、彼女なりの精一杯の表現だった。
マルクの靴音はどこかへ去り、それ以降再び聞こえることはなかった。
深いため息を落としたカミラは、とにかく目をつむり、時間の流れを肌で受けながら、ゆっくりと眠りに落ちた。
それから建物には、あくる朝まで足音一つ響かなかった。