第30話 おぞましき悪夢に少女は困惑すること請け合いだ
アリーの苦悶の唸り声が地を渡った。
クローネラントの制圧都市。ウェイセンフェルトから西方へ二百キロほどの地点にあるコンツェルトで、要塞攻勢軍は待機していた。
そこでは未曽有の事態にあわただしく働く医師たちが右往左往しており、そして数多くの悲鳴と苦しみの声が飛び交っていた。
「クソ――――ッ!!!」
アリーは包帯を巻かれていない方の腕で、テーブルを何度も殴りつけた。
怒りを率直に表現した叫び声の連弾は、はた目には気狂いの起こした発作にしか見えない。
それは常に冷静だった彼女の心中を察するにあたって、教科書以上に適した光景だった。
怒鳴り声、叫び声。こういったものを、今まで幾度彼女が発したか。
数えるまでもない。たった数回の山場を除いては、彼女は苦痛によっても、恨みによっても、悲しみによっても叫ばなかった。
声を挙げ立てることはなかった。
それを知る者になら、彼女の心が理解できた。
攻勢失敗から二日が経過し、損害の程度が徐々に明らかになってきていた。
総死者数、推定二万四千人。負傷者数推計不可能。被害は、首都攻撃に要する人員の半数に及んだ。
そしてあの白い煙の正体も、おおよそ推測がついた。
ウェイセンフェルト以外にも、ほぼすべての戦場に投下された白煙は、仮称ラウヘン。
気化したびらん性の細胞毒であると考えられている。
いわば、毒ガスだ、
症状から察するに、肌に受けると皮膚組織の破壊、火傷、強い痛みといった症状を被ることとなり、ひと吸いでもすれば呼吸器官に甚大なダメージを及ぼす。
これによって死傷した兵士の数は、犠牲者の三分の一にも上った。
そして、魔女の主導者たるアリーにはもちろん、ハイラントフリートの犠牲が伝えられる。
こういったことは、五度目だ。
それは魔女が戦場を駆けた回数であり、アリーが死者の数字に叱責された回数である。
今回は特に凄惨だった。渡河戦でブランクを失った時よりもはるかに。
壊滅的だ。
最前線に立ち、最も逃げ場のなかった彼女たちは、アリーの近くにいた者を除いて無傷であるはずがなかった。
煙状の劫火に包まれて、激痛の中冷静に逃げ延びることが少年たちにできるはずがない。
文言上での事実を受け止め、再びアリーは犠牲者の面会へと向かわされる。
アリーは、医療施設のとある部屋の前で立ち止まった。
支配下にあるこの街の、暫定的な詰所。
うち、魔女たちが治療を受けていると指示されたその部屋だった。
中からは、苦しみの声と、涙の叫びが聞こえてくる。
ひしひしと、この戦争へ全てを駆り立てた女の責任を突き付けてくる。
自分自身で歯を噛み砕いてしまいそうなほど。
アリーは、扉をあけた。
「アリー様……! 無事だったか!」
開口一番にひとの心配をした男は、その五分の一を失っていた。
彼女に駆け寄り、肩に手をやり、身体の異常を確認する。
「よかったよ。あんたさえ無事ならまだ……反撃のチャンスはある。腕は動くのか?」
しかし、心配の宛先は黙ったままだった。
右腕をどこかへ落としてきたドロノフが彼女の視線を追うと、その先には呼吸もままならず、苦しみを口にもできないでいるマーシャが居た。
やはり、といった反応の後に、ドロノフは諭す。
「……大丈夫だ。命だけは助かった。死んでなけりゃ治る可能性だって十分ある。最近は技術が進んでるからな」
「だまれドロノフ――」
彼の慰めを遮った言葉は、足場を失いぐらついていた。
喉を震えに支配されたまま、アリーはぜえぜえと息の速いマーシャの元へ行く。
彼女のほとんどの皮膚は焼き尽くされており、触れれば絶叫を挙げさせることになる。容易に予想できたアリーは、その手を握ることもできなかった。
儚げな可憐さを伴った彼女の顔も、既に見る影もない。
「恨んで――くれ」
アリーは唇から血を流した。
「私を殺してくれるほど憎んでくれ――頼む――」
自罰に苦しむ主人を、呼吸困難でもうろうとしているであろう意識の中、マーシャは認識した。
その目から流れた涙は、皮膚を伝うとすぐに血の色になった。
アリーは涙する彼女を見ていられなくなり、部屋を去った。
ドロノフは、その場に残った。
最愛の友人であり、恋人であり、家族である彼女のそばに、彼はただ座った。
そして存外に優しく穏やかな顔で、マーシャに話しかけた。
「心配すんな。アリー様は必ず立ち上がるさ。そして俺が、それを支える。家に帰してやるよ。全員な」
マーシャの涙は止まらなくなり、それがこめかみを伝い激痛になる。
声にならない声で苦しむ彼女を、憐れむでも、悲しむでもなく、しっかりと見据え、ドロノフは声をかけ続けた。
アリーが部屋を飛び出しベランダの柵に頼ると、そのすぐそばにはエルザが居た。
先ほどまでは居なかった彼女は、座り込み、うずくまっていた。
主君はそれに気づくとすぐに駆け寄り、彼女に怪我がないことを確認する。
どうやら、その氷の魔法で周囲を取り巻いた化学物質を凍らせて、なんとか身を守ったようだ。
彼女と同行していたカミラもそれに守られ、怪我はないと言う。
そのほかのメンバーは別々に治療を受けており、アリーの助けた者達も含めていずれも命に別状はないと彼女は語った。
アリーは少しだけ安心した様子で、柵を背もたれに寄りかかる。
逆さに空を見上げるような格好になり、心の整理を付けているようだった。
不可解なほどに晴れ渡ったベルネブットの空が、アリーに波状かつ多様な感情を植え付けてくる。
「自分の決断の、その責任を取る勇気もない。存外、脆い人間だった――私は」
泣き出してしまいそうな弱気な主を見て、エルザは胸がいっぱいになる思いだった。
どうしてもそれを堪えきれなくなり、とうとう立ち上がる。
「アリー様は……弱虫です」
アリーの眉がひくと動く。
空に逃げるように視線をやったままの彼女は、あのエルザがこんなことを口にするほど、自分が腹立たしい存在なのだと自戒していた。
しかし、次に彼女はこう続けた。
「私たちは、誰もあなたを責めてなんかない! それなのに、どうして――自分で自分を責めるんですか! 勝手に自分で傷ついてしまうんですか!!」
アリーには答え難い、そして最も痛い問いだった。
「あなたは、家族が死んだことを嘆いているんじゃない。自分のせいで死んだことを嘆いてる。私たちがあなたに付いてきたせいでって、そう――」
エルザは、自分でもよく考えがまとまっていないことに気付いていた。
兎に角アリーが、自分たちに話せない何かに苦しんでいることを訴えて、それを打ち明けるよう促したかったのだろう。
だが、彼女は虚ろに空を見つめるばかりでエルザにとりあわない。
彼女が腹に据えた目的は、今も変わっていない。しかし、それが間違っていることも、すべきでない所業であることも、彼女は理解している。
彼女がその目的に沿うようにシナリオを動かそうとすればするほど、彼女自身がその非道さとエゴイズムを自覚する。
アリーという、強烈な目的に縛られても尚普通の人間である少女は、その二律背反に苦しんでいるのだ。
それを、今ここでエルザに吐露してしまいたいとどれだけ彼女が願った事か。
しかし、結局は言わなかった。
答えられず、その場を去った。
「アリー様……私は――」
エルザは、悲しそうな目で去る背中を見つめた。
このままではアリーは立ち直れないと。痛みに勝つことはできないと彼女は案じていた。
戦争を勝利に終わらせて、家族の犠牲を無意味にさせないために戦わなければいけない。
自分にも分かっているそれでさえ、今のアリーには決心できないと、エルザはただただ心配だった。
彼女はどうしようもなく悲しくなり、その場に再び座り込んで泣き出してしまう。
年頃の少女には、この現状はとにかく辛いのであった。
外のやり取りに気付いていたドロノフは、窓越しにそんなエルザを見つめていた。
答えは誰の中にも、なかった。
ハイラントフリートの被った損失はその半数以上にも及び、二十一名が死亡。五名が戦闘不能。
実質的に無事に生き残ったのは、たった十五名となった。
動けるのはカミラ、ドロノフ、エルザ、マルク、フーゴ。家族は、また数を減らした。