第26話 大勝利に伴い祝杯をあげよ
「ブランクが死んだ」
ドロノフは、野営地で手当てをうけるアリーに告げた。
アリーは、報告書に書きこむペンを落とした。
「ひでえ火傷だが……別れを言ってやろう」
振り返らない。
うなずかない。
ただ、彼女は拳を握りしめた。
呼吸の音も、聞こえない。
「さあ。アリー様」
ドロノフがその肩にそっと手を置き、アリーは髪に表情を隠したままテントを出て行った。
安置所には、かなりの数の遺体が運ばれていた。
死臭もひどく、こんなところに彼女が居させられていると思うとアリーは居てもたってもいられなかった。
特別にはなして置いてあったため、そしてフーゴが立っていたため。アリーは、すぐにブランクを見つけられた。
彼女がよると、ひざを折ってそばに寄り添っているフーゴが口を開いた。
「僕には見えない。彼女の最期を、見てあげてください」
アリーがうなずき、フーゴが血の滲んだ布を取る。
その顔はひどく焼けこげ、皮は剥がれ落ち、髪は抜け、ひどく傷つけられていた。
だが、不思議とやわらかな表情をしている。そのように、見えた。
アリーは、涙しなかった。
地獄の底からはい出る悪鬼のごとくその顔を変貌させ、手袋をした手のひらすら流血させるほどに拳を握る。
彼女は叫びを挙げたかったことだろう。
ここにある全てを破壊しつくすまで暴れたかっただろう。
だが、フーゴの一言がそれをおしとどめた。
「ザリは後悔していません」
彼女の最期を見取った、いや、感じ取ったのは、フーゴだった。
そしてその言葉は、彼女の表情に裏付けられていた。
死の間際、彼女はそれから逃れようと、残した未練を追おうと足掻かなかった。
それが、笑顔にも似た死に顔の理由だった。
「私は憎い――己の愚かさが……私は彼女を不幸にした」
フーゴの目布の下の表情は、それを聞きわずかに悲しんだ。
「あなたが自分を否定したら終わりです」
ふいに立ち上がったフーゴは、アリーの目の前に立ちはだかり言った。
「こいつが信じたあなたを、僕たちが準じたあなたを、あなたが自身が否定してどうするんです! あなたは一人しかいない。その正義が正しいかどうかなんて関係ない。僕たちは、アウレリア卿と共に来たんです。そしてこれからも」
しかし、アリーは自分のせいでブランクが死んだと返す。
フーゴはそれに対して、実に正直な心を話した。
「――確かにその通りですよ。あんたのせいだ」
アリーは歯ぎしりをする。
「あんたが、僕たちを救ったせいだ」
しかし次に出た言葉で、アリーはなんとなく彼の言いたいことを察した。
そして、口元を緩める。
「あの家に在るのは全部、あんたに委ねられた命だ。あんたのせいで死のうが、あんたのせいで生きる意味を手に入れようが、あんたのせいで死んでも守りたい大切な家族ができようが!! 全部あんたの――せいなんだよ」
アリーはその全身から力を抜いた。
ドロノフがそばに寄り、再びその肩をなぐさめる。
「こいつはいつも言ってたよ。あんたのおかげで幸せだってな。だろ」
伏し目がちに問うドロノフに頷き、フーゴはアリーに言って聞かせる。
「ブランクは、あなたが大好きだった。実の姉のようだと慕っていた。離れ小屋に居る時に、寝床で話すのはいつもあなたの事だった。あなたに会いたいと、そう言わない日は無かった。アリー様は、ご自分で救われた命を後悔するべきじゃない」
ずっとブランクを見ていたアリーは、後ろを向きそうだった自分を律し、そして再び決心していたことだろう。
その無表情は、何か強いものの裏付けだったように思えた。
最後に遺骸をそっと抱き、去った者を布に埋めてアリーはテントを出た。
ドロノフがフーゴを残し、少し遅れて外へ出ると、そこにはエルザとマルクがいた。
恐らく彼女の死を知らされて、彼らと同様の想いを確認しに来たのだろう。
彼を前にしたエルザは、唇を震わせた。
問いを察した男は頷く。
少女は堪えきれなくなり、彼の胸で涙した。
その悲しみを大きな体で受け止めたドロノフは、そっと彼女を抱きしめた。
マルクは凄然と立ち尽くすまま。
哀れな少年たちは、その後しばらくして別れた。
ドロノフは、自分の荷物のあるテントへ戻った。
少しの寄り道もない、実直な足取りだった。
これ以上見たくなかったはずだ。だからそうして急ぎ足になったのだろう。
優しい男は、直面した戦争の悲惨さに苦しみ嘆く声を聞いてはいられなかった。
大規模渡河の成功を喜ぶどころか、もう逃げ出したいという話し声がいくつもいくつも流れてくる。
三週間もの地獄の忍耐、そして鉄の雨による多大な犠牲を経験した兵士たちは、すでに余裕を失っていた。
勝ちを得るといさんで飛び出した戦争というものが、人を人とも扱わない、命を命と振り返る猶予すらない狂気であると、全員がようやく気付いたのだ。
彼自身もそのひとりであり、彼は己が主にもその片鱗を垣間見ていた。
ゆえにこそ、苦しみはより大きく変異してのしかかってきた。
テントでは、即席のベッドに横たわるマーシャが無言で待っていた。
彼が椅子に腰かけると、彼女は鼻のつまった声で問いかける。
どうしてだ、と。
なぜなんだと。
マーシャが問いたかったこと、問うたところでどうしようもないと知っていたことも、彼にはよくわかった。
今更口にする後悔も野暮だと、彼は何も言わなかった。
何も、言えなかった。
バルトブルクはヴィスキ川渡河戦に勝利し、その勢いで半日の内に広域にわたる前線を北へ押し上げた。
長期戦と戦術爆撃による死者を多数出したものの、主戦力においてはほぼ無傷で白星を勝ち取った正面戦域軍はそのまま前進。
魔女による突撃、後続による各個包囲を繰りかえし快勝を続けた。
異例の戦力によって躍進に躍進を重ねたバルトブルク軍は、わずか一ヶ月後までにはベルネブットの首都を抱く県、クローネラントにまで迫り、第二都攻勢軍、そして首都包囲軍とに戦力を分割し、決定打の一戦に備えしばしの沈黙を醸している。。
海戦でのおおむねの優勢報告と相まって、国内は沸騰。
破壊的な戦果をあげ続けるたった五十人の魔女への畏怖と尊敬、そして多大な声援が民軍両方においてまき起こった。
同時にアウレリア・カーティス・べヒトルスハイムの名もひろく轟き、国内外において早々に英雄と祭り上げられて喝采を受け始める。
実に快調だ。
万事計略通りである。そのはずだった。