第20話 かくして芽生える、
フーゴは、うつむきがちに夏夜を歩いていた。
相変わらず布で巻かれた目元が全く表情を語らない男だが、彼は間違いなく疲れ、思い悩んでいた。
アリーはまだ、王城のパーティから戻らない。
その不在の合間に、彼は大工道具を買い足しに出かけたのだった。
街はいつも通りだった。
週末の夜につけこんで、路上でキスを交わす女。裏手で相棒を殴り喚く、ぐれた少年。
恐らく雲一つないであろう澄んだ空気を抱いた空は、コウモリの遊泳を促した。
恐らく降り注いでいるであろう柔らかな月光は、猫を散歩に駆り立てた。
虫の吐息のわずかに至るまで、彼に聞こえ、触れるすべてのものは、通常通りを守っていた。
ただ一点の、暗い視界の最中以外には、の話だったが。
「ため息などついてどうされた」
不意に声をかけて来たのは、声と言葉遣いから察するに老人。
フーゴは立ち止まり、そちらを振り返った。
「盲目の御仁よ」
発声位置が低い。
恐らく老人は、ベンチか丸太に座っていた。
フーゴには無機物も見える。
ゆっくり歩いて、そのベンチの空席に腰かけた。
「確か……コルト老人、でしたか」
「おお、よくお分かりで」
コルトというその人は、以前ハイラントフリートに依頼をした人物だった。
請け負った仕事の内容は、新顔の一人を畑仕事に貸すというもので、何でも屋と間違えたというのがきっかけだった。
その時はアリーが断るなというので、フーゴが仲介し色々世話をしたのだった。
「いや、その節は――」
コルト老人は、感謝の思いをしばらく語った。
それまで何かにうつむいていたフーゴだったが、有り難がるその声を聞いていると自然とその表情は崩れていった。
彼は、一言謙遜の言葉を述べ、嬉しそうに沈黙した。
「――では、恩への報酬を払わねばなりませんな」
「いえ、代金はあれで十分ですよ」
発言からチップを出すと思ったフーゴは、それを断った。
しかし、老人の声は優しく笑った。
「金ではありませぬ。心の吐露を、聞いて差し上げようと」
フーゴは、自分が暗い気持ちでいることを見抜かれていた。
ただの農夫だが、コルトは幾ばくかの歳月を彼よりも多く生きている。
落ちこんだ青年にどう声をかければいいか、心得ていたのだろう。
フーゴは感服し、その肩を借りる事にした。
「――心配でして」
部外の他人だ。詳しく踏み込んだことは言えなかった。
彼は他の誰よりも、アリーの行く末を案じていた。
「ある尊敬する人がいて。彼の人は、以前のように周囲を気遣わなくなった……ないがしろにさえ、するように――いえ、正確には、そのように感じるんです」
老人はおそらく、こちらの顔を覗いて、背もたれにゆったりとかかっている。
しばらく思考をひねるような声色を帯びたため息をつき、そしてこう説いた。
「何かやりたいことがあるのでしょうなぁ。とんと入れ込む何かが。儂も今となってはこの老骨だが、若く猛きときにはすっかり周囲を失念し、いか様な迷惑も顧みませなんだ」
フーゴは、表情をこわばらせたまま指を組む。
老人は後ろからその様子を優しく見守り、若者にこう続ける。
「しかし、それは熱き事の裏返し。曲げられない何かを追い求める、老いては叶わぬ歩み方。決してその人が邪悪に落ちた訳でも、人格を損なったわけでもござらん」
フーゴはハッとして、老人の方を振り返った。
「友が前しか見ないなら、空いた背中に立つと良い。儂は先だった連中の生き方に、そう教わりました」
多くの過去を振り返っているのか、そのしみじみとした呟きには独特の趣があった。
ありふれた言葉のようでいて、森に苔むした大岩のような響きのあるそのメッセージは、フーゴに大事な決心を思い出させる。
老体に刻まれた歴史から繰り出される励ましは、勇気づけられることこの上なく、青年は立ち上がって帽子を取り礼をした。
急いで駆けだした彼を、コルトはにっかりとした笑顔で見送った。
見えなくとも、それは彼に伝わっていた。
フーゴは用を済ませて早く家に帰ろうと、半ば笑みを湛え走った。
無性に家族に会いたい気持ちがその足を急がせる。
工具店は街の大通り。
この夜中でも開いている。
近道をしようと、横道に入った。
その時、バケツの倒れる音が反響する。
フーゴの足は、地面を掴んで立ち止まった。
もし周囲に人目があれば、青年よどうしたと奇異の目が向けられたことだろう。
それほどの形相で、ゆっくりと彼は振り返った。
「やあやあイオニアス卿。久しいですね」
聞き知れた声が聞こえたが、その主は既知の者とは異なった容貌をしていた。
麻薬でも服用して枯れたか、飢えて死にそうな女が彼に話しかけた。
「折り入って、というのもなんですが。ひとつ商談などいかがかな」
フーゴは黙ったままだ。
女はしおれた表情のまま笑い声をあげた。
「断る、といったところですか。まあ話だけでも」
青年は気取られないよう背中に手を伸ばす。
目当ての短剣の柄を握ったところで、それを見透かしていた女がケタケタと続ける。
「止めておくがいい。戦前に腕まで失いたくはないでしょう? そうなってはこちらも困る。欲しい人材の価値が下がってしまっては」
そのわざとらしい言いぐさで、フーゴは敵の目的を大凡悟った。
白々しい態度に、フーゴは怒りを口にした。
「目を奪い、僕を奴隷と堕としておきながら、今更その口ぶりか」
「なぁにをおっしゃる。私は一寸たりともあなたに近付いたことはない。そのような非道な行いをしたのはフレルク卿でしょう。まったく、逆恨みもはなはだ――」
一瞬の閃きだった。
火花が高く飛び散り、短刀が痩せた女の喉元に押し寄せる。
「……速いですね。彼女と同等か――」
今にも首が刎ねられそうな剣幕だ。
辛うじてナイフでそれを押し止めている女は、その細った腕ではこれ以上耐えきれない様子だ。
「この女を殺しても、あなたが神に顔向けできなくなるだけですよ……己が主君のようにね」
「この期に及んで――アリー様にまでその汚い唾を吐くつもりかランペルツ」
「奴の正体も知らん癖に庇うのか。目の暗いことだ」
一瞬、動揺が見て取れた。
「濁血は懐疑心というものが欠落しているらしい……お父上と動揺の浅はかさだ!」
僅かなためらいのその隙に、女はフーゴの腹を蹴り飛ばし、足先が切れるのも構わずに落ちた短刀を払う。
疲れたのか、必要な動作を終えた女はけだるそうに半笑いで近付いた。
そして急所を打撃され怯むフーゴのもとにしゃがみ、からかうような声色で語った。
「お前は何もわかっちゃいない。奴が何を企んでいるのかも。何処を目指しているのかも」
相当に応えたのか、フーゴは未だ苦しみ、立ち上がる事ができない。
その吐くばかりの息に紛れて、彼は精一杯の言葉を放つ。
「僕は――アリー様――正義を――!」
いよいよ滑稽そうに、女は彼の髪を掴みあげ、布の奥の盲いた目を覗き込んだ。
「じきにお前は知ることになる。アウレリアの腹の内をな――その時は、私に手紙を寄越せ。すべきことを教えてくれる」
そうはっきりと言い残して、女はその場にバタリと倒れた。
まるで体の芯が抜かれたかのようにふにゃりと気絶し、その口鼻から青白い光が漏れ出して空へ消えた。
「くそ――」
絶え絶えの呼吸の中でそう吐いたフーゴは、ようやくよろよろと立ち上がって女の容体を確認する。
とりあえずの無事が分かったところで、彼は引き続き用事に就く。
胸の中にいら立ちと、そしていっそう闇を深めた不安を残して。