幕間 菫の幸せな一日
私こと「玉依菫」はたぶん、今年一番の幸運を掴んだのだと思う。月読の大祭が行われ、その神の子が選定される御子の禊で、神様に選ばれたのだから。神社の冷たい水で体を清め、身も心も清廉に染まったスミレは誰よりも純粋で、月読様はそんなスミレだったからこそ、鐘を鳴らしたのだと思う。あの月読の鐘は選ばれた子供の前でしか音を鳴らさない。もともとあの鐘の中は空っぽだから、普通に鳴らしてもなるわけがないのだ。
月読様になればなんでも願いが叶う。スミレの望みはたった一つ。あの人と結ばれること。
でももう願いは叶ってしまった。だってスミレは愛する蘇芳様とこうやって一つになれたのだから。
「蘇芳様、スミレの願いは叶ってしまいましたの」
「そうか」
優しく笑う蘇芳様。その笑顔はスミレだけのもの。だって、さっきまであんなに冷たかったのに、スミレが素直に思いをぶつけたら、優しく笑ってくれたんですもの。思い返すと恥ずかしいけど、本当はもっと早く積極的にアピールすればよかったんだわ。
『鬱陶しいな。今、イライラしてるんだ。これ以上付きまとわないでくれないか?』
正直、スミレは蘇芳様の言葉に傷つきましたわ。でも、きっとこれは月読様の試練だったのですね。
『どうして、どうしてスミレを見てくれないの? スミレだけを見てよ、スミレだけのものになってよ!』
恥ずかしい。これじゃプロポーズだわ。
『そうか。そうだったのか。ごめんごめん。君がそんなに僕の事を想ってくれてたなんて知らなかったよ』
そう、この言葉を待っていたの。
『菫、君は僕のものにしてあげるよ』
ああ、体が熱い。きっとこのままスミレと蘇芳様は一生一緒にいるんだわ。二人だけの世界。私と蘇芳様の楽園。二人で築きましょう。
「ここでいいかな」
「はい。蘇芳様とだったらどこまででも一緒に行きますわ」
ここはどこかしら?やけに薄暗いけれど。ああ、そういうことか。蘇芳様も男の人なんだな。スミレは結婚するまではとか、そういう重い女じゃないわ。キスだって蘇芳様が望むならいくらでもするわ。
「君はそれなりにいい匂いがするね」
そう。清廉なスミレはきっと蘇芳様に似合った香りが溢れている。
「じゃあ、遠慮なく僕のものになってもらうよ」
首筋に冷たい感触が……冷たい?なぜ、私の首にナイフが刺さっているのだろう?
「一度でいいから首から気持ちよく血を啜ってみたかったんだ。これで君は僕のものだよ」
ああ、そうか。これでひとつになれるんだ。苦しいけど、ああ、蘇芳様の唇が……すおう、さま。
満足そうな表情の蘇芳は菫の死体をその場に捨てた。鮮度が落ちた刺身を捨てるように、二度と菫を見ることはなかった。そして、その光景を見ていた者が一人いることに蘇芳は気がついた。
「おや? そこにいるのは瑞樹さんかな?」
瑞樹は戦慄を覚えずにはいられなかった。月守高校で一番の美男子でナルシスト、付き合った女の数は数知れずと有名な「水無方蘇芳」。正直これのどこがいいのか理解できない瑞樹だったが、ひとつだけ理解できたことがある。こいつは異常者だ。
「どうしたんだい? まるで夜道で夜叉にでもあった顔をしているね?」
瑞樹はその場から動けなかった。たった今目の前で行われた殺人、いや食事に吐き気以上に恐怖を覚えている自分がいた。
「大丈夫、もう満ち足りたから」
何が満ち足りたのかは聞くまでもなかった。
「やっぱり試してみるといいものだね」
やけにお喋りな蘇芳の目はとろりと溶けていて、酒に酔ったかのように見えた。
「僕に渡されたのはナイフでね。きっと親が僕の引き出しから持ってきたんだと思うよ」
「そう。蘇芳君、武器はみんな持ってるものなの?」
「そうなんじゃない? もしかして、渡された武器が気に入らなかったのかな?」
「いいえ。そうじゃないわ」
「気に入らなかったなら、相手を殺して奪うのもアリだと思うよ?」
「そうね。考えておくわ」
「それじゃ、僕は探し物があるからこれで」
「ええ」
蘇芳は何事もなかったかのように瑞樹の脇を通り抜け、教室の入口を開いたところで止まった。
「そうだ、この事は内緒だよ」
「わかったわ」
ひらひらと手を振りながら蘇芳が去るのを見ずに、嵐がただ過ぎ去ったのだと安堵のため息をこぼした。
そして、なにも手にしていない自分の手のひらを見つめると、おもむろに菫の遺体から彼女のスタンロッドを拝借した。
「ハンディキャップ、か」
彼女…「姫宮瑞樹」には、初めから武器など手渡されていなかった。