幕間 願い
雫の落ちる音が耳についた。
目の前に揺れる花弁は、庭に咲いていた唐菖蒲の赤を思わせて不意に懐かしさに襲われた。
どうしてこのような場所まで来てしまったのか。
自分の愚かさと比例して迫り来る情動は、ただ取り返しのつかない引き返せない場所に立っている事を強く自覚させた。今ならば彼の言っていた意味がわかる気がする。
耳元では優しすぎるあの声が響いている。風が花を揺らすようにさりげない日常。もう二度と戻れない場所を断ち切る様に、文は手にした日本刀を振り払った。
衣替えを終えたばかりで制服がナフタレンの臭いを残したままの季節、月守町で、何十年かに一度の大祭が開かれた。年に一度の月読祭とは別に今年は月読の大祭と呼ばれるものが。
大祭は通常の月読祭と大きく異なる点がひとつある。
この大祭は祭りの最後に十五から十八までの年齢の選ばれた少年少女が神送りの義で町を練り歩くのである。その選ばれた私達は神の御子として無病息災、安全祈願を町に振り撒くのだそうだ。
その後、私達は個別に部屋を与えられ、禊や、座禅などを七日間行い、選ばれた神の子の一人が月読様の後継者として町のシンボルとなる。
誉れ高き月読様になることは、誰もが憧れることであり、それは短冊に書いた願いが必ず叶うといった事と同じ意味を持つ。
事実、月読様はその願いの全てを手にする事が出来る。
もし、私が次の月読様になれたのなら、願うことはたった一つ。
そう、たった一つの願いの為に、私は道を踏み外した。
目の前に在るのは赤い花ではない。
一学年下の名も知らない男の子だ。幼い容姿をだらしなく弛緩させ、その表情は苦悶を宿らせている。『何故?』と問いかけるように死に絶えた彼を切り殺したのは文自身だった。相手が襲ってきたらなどという正当化は最早意味を成さない。
これはそういうルールだ。
集められた神の子を殺しつくし、最後に立っていた者が唯一願いを叶えられる月読様になれるのだから。
「ごめんなさい。でも私はまだ死ぬことは出来ないの」
文は小さく呟くとその場を後にした。
鉄骨造りの校舎はだいぶ寂れていて、使うものが無くなって久しく感じられた。目を覚ました際には修行をしていた個室に居たところから学校に、それも廃校に移動させられたことはわかっていた。
目覚めに呼応したようにアナウンスが流れ、「互いに殺しあえ」と一方的に告げられた。
そして文は一つの命を容易く摘み取った。
それは余りにもあっけないほどで、一瞬本当にこれは人だったのかと疑うほどだった。しかし今ならばわかる。この手に残った感触はヒトの命に触れ、それを散らせた。岐路はとうに過ぎ去ったのだと。
誰もがそれぞれの願いの為、他者を殺める。単純にして明快。人の尊厳など神の前には無力といったところだろうか。
文は扉の奥から聞こえる甲高い声に気配を沈めた。
「だから、三人で殺った方が効率的でしょ?」
「そうね。幸い三人とも飛び道具だし、江戸時代の鉄砲隊みたいに順番に射っていけば確実ね」
「さすが蘭ちゃーん。勉強できるアピール?」
「これから殺し合いするのにそんなアピールいらないでしょ」
文は声からこの場にいるのが、花梨のグループであることがわかった。同じクラスの「末積花梨」と一学年の下の「水臣蘭」、「木花茜」は、校内では不良グループと認識されていた。文自身はなんとも思っていなかったのだが、一方的に花梨から目の敵にされていた。
『三対一。相手は飛び道具か。飛び込んで先に花梨を殺せば、後はどうにでもなるはず』
文の中には相手を殺す以外の感情は無かった。実際に先ほど一人斬り殺したばかりだ。大丈夫。一人殺したら後は何人殺しても同じ。自分に言い聞かせるように、文は勢いよく扉を開いた。
「え、なに?」
いち早く気がついたのは、鉄砲隊の話をしていた蘭だった。文は蘭には目もくれず、一直線に花梨へと走りこんだ。右斜め上から袈裟斬り、そのまま殺す。イメージが頭に湧き上がり、実際そのイメージのまま刀に手をかけた。
「もう殺し合いするのぉ!?」
駆け込んで、
「茜! はやく殺して!」
振り上げて、
「花梨ちゃーん、ちょっと待って、あたしぃ」
振りおろ……
文は日本刀を振り上げたまま動けないでいた。目の前にいる花梨はクラスの中でも浮いていた。確かに不良で、近寄りがたい雰囲気も持っていた。でも、私は花梨が笑っている姿を知っている。無邪気に三人で談笑している姿を見て、少しだけ羨ましく思ったこともあった。あんなに無邪気に笑える彼女を切り殺せるだろうか。
「あれぇ? あいつ動かないよぉ」
茜はようやくクロスボウに矢をつがえ終わり、動かない文を見てニヤニヤ笑っている。
「いざ殺すってなったらビビったんじゃないの?」
蘭もボウガンに矢をつがえてその照準を文に向けていた。
「それ、チョー笑えるんですけどー。ビビリじゃんこいつぅ。ねえ花梨ちゃん、こいつどうやって殺す? 花梨ちゃんこいつ嫌いだったじゃん?」
茜はケタケタと笑いながら、花梨を見た。
「ちょっとあんた達! さっさと殺しなさいよ!」
花梨と呼ばれた少女が怒気を上げて二人を見た。その瞳は殺される恐怖の色に染まっていた。あの瞬間、確実に殺されると感じていた。何が起こったかはわからなかった。さっきまで自分は殺す側だと勝手に思っていたのに、一秒後の死を予感していた。
「花梨ちゃーん、もしかしてビビってるのぉ?」
「違うわよ! いいから殺しなさいよ!」
「だったら、花梨が殺せばいいじゃない? ねえ、先輩にいいところは譲りますよ」
蘭は冷ややかな言葉を花梨にぶつけた。
「な、何言ってるのよ。あたしは殺されかけたのよ。あんた達はあたしが殺されたかけたから生き残ったのよ。そうよ。文だってあたしだったから殺せなかった。あたしがいなきゃあんた達は今頃、死んでたのよ!」
「なに、ムキになっちゃってるのぉ?」
「どうせ茜も蘭もあたしがいなきゃ何もできないんだから、たまにはあたしの役に立ちなさいよ!」
花梨の言葉が虚しく宙に散らばった。
「花梨、それどういう意味かしら?」
「花梨ちゃん、今の何?」
二人からの冷たい視線に、花梨は身を固くした。文に向いていた矢が、いつの間にか自分に向いている。
「なに、する気……」
「前から思ってたんだけどぉ」
「一歳年上ってだけで、妙に偉そうなことばかり言ってるよね?」
「あたしねぇ、月詠様は蘭がなった方がいいと思うの」
「そうかしら? 私は茜の方がいいと思うけどな?」
それは明日は何を食べようか?と笑い合う少女のやり取りのようでいて、獲物を仕留める狩人の目をしていた。
「ウソ、でしょ?」
「バイバイ。花梨ちゃん」
「さよなら。先輩」
同時に放たれた矢は、花梨の胸を貫き、鮮血が飛び散った。花梨の口元から声は出ずに、内臓から溢れる血液が喉を塞いだ。
文はその光景から目を離せなかった。笑い合っていたはずの三人が、こうも簡単に一人を殺す現状。
「うわー、まだ生きてる。チョーキモイんですけどぉ」
「茜、さっさとあいつも殺そう」
次はチョコレートが食べたいな、とでも言いたげな口調で、二人は文を見やった。
「……せない」
「え? なぁに?」
「許さない!」
文は怒りのまま、日本刀を振りかぶる。怒りに任せた斬撃は空を切っただけだったが、二人にはその怒気が野生の獣のそれと同質に感じた。
「いや、来ないで!」
我先に教室から飛び出す二人を見た瞬間、文の体から力が抜けた。その場にへたりと膝をつくと、やりきれない思いのまま、死に絶えた花梨を見つめた。
「私も、同じだ。ごめんなさい」
言葉は虚しく響くだけだった。